4月号編集後記

♠水彩スケッチをするなかで「ミニマリズム」という言葉を知りました。単純な線と限られた色で描く絵です。省略により生まれた白地のホワイトスペースが観る人に大きな想像の空間と美を作り出すのです。この主張は五〇~六〇年の欧米で絵画・音楽などの分野で生まれた表現スタイルで「最小限主義」とも言われます。映画「パーフェクト・デイ」もミニマリズムの生き方を描いたとも言えそうです。俳句はまさにミニマリズムの文学。和歌、盆栽、茶室、芸能など限られた状況・空間、色彩の中に無限の世界をつくりだす日本文化はミニマリズムの頂点と強く感じました。(邦雄)

 

3月号編集後記

♠俳句の基本は季語や写生を基本として、「感動を詠う詩である」(重次師)とされています。師はその感動は大声を出すようなものではなく、呟くような含羞を込めた感動であってよいし、それを表現することのほうがより難しいと述べています。これは季題趣味から離れて実感に即しての俳句を求めたとも言えそうです。私は写生よりも暮しの中で出会った事柄をひとひねり(打ち返し)して、面白さや思いを一句に仕立てるのを楽しんできました。喜寿を迎えてますます含羞(屈折?)傾向が深まっているようです。(邦雄)

 

2月号編集後記

♠俳句や絵画が作品として成立するには、読み手や見る人の存在が

欠かせません。ただ、絵の方は情報量が圧倒的に多いので、作者の狙いが分りやすく、好き嫌いがはっきりします。一方、俳句は17文字から作品の意図を推論し省略を補い、自分なりの解釈で映像化します。これが

俳句の鑑賞のプロセスと言えます。従って作り手と読み手のイメージが

重なる保証はなく、誤読を招く可能性は否定できません。ところが、その誤読が作者の狙い以上の作品の魅力を引き出す優れた鑑賞を得ることがあります。「選は創作なり」(虚子) と言われる所以でしょう。(邦雄)

 

 

2024年 1月号 編集後記

♠11月下旬に中川氏と潮句会に参加しました。太宰府天満宮に初めて参拝しました。参道は観光客で埋め尽くされており、鎌倉・京都だけでなく、全国各地の有名観光地が外国人観光客で賑わいを見せていることを実感した次第です。ご本殿は124年ぶりの大改修が行われており

見ることが出来ませんでしたが、樹齢1500年、高さ28m幹周り11mという大樟をはじめ大小百本あまりの樟が聳え立つ「天神の杜」に歴史と自然の生命力を感じた次第です。(邦雄)

 

12月号編集後記

♠水彩画を始めて写生(スケッチ)に対する考えかたが変りました。写生というと見たままを描くの一般的な考え方ですが、入門書などを読むと写真のように描くのが必ずしも良いことではないようです。何を主題にしてどれを脇役にするか、そのための省略、単純化、移動などを考えて絵の構成を考えることが大切とあります。ある講師から、「絵にも余白が必要で余白が語るようになれば上級者」とのアドバイス。俳句と共通するところがあると強く感じた次第です。(邦雄)

  

11月号編集後記

♠横浜句会の鎌倉吟行へ参加しました。吟行は昨年10月の全国大会以来であり、鎌倉も数年振りに訪れました。

秋分の日を六日後に迎えるというのに、猛暑は収まらず、鎌倉八幡宮の後背には峰雲が聳えていました。そこで一句。「峰雲のいまだ威をはる残暑かな」。季重なりの句ですが、見たままの景を詠みこの暑さに対する実感を込めてみました。異常気象は様々な生活のリズムを狂わせていますが、俳句にとっても影響は多大です。昔はもっと四季の風物に風情があったはずなのに、季節感が分らなくなってきたなかでの作句には苦労しています。(邦雄) 

 

10月号編集後記

♠新聞の読者欄の「第二の青春を生きる祖父」と題する高校生の投稿が目に入りました。八〇才を過ぎても、豊かな好奇心や探究心を持ち、新たなことを吸収している祖父を紹介。老いと闘う姿は若者とは違った素晴らしさがあり、自慢できる祖父としめくくっています。「青春とは人生のある期間ではなく心の持ち方を言う。逞しい意志、豊かな想像力、燃える情熱をさす」と詠んだ詩人のサミュエル・ウルマンの「青春の詩」を思い出しました。俳句を続けることも意志や情熱があるからこそでしょう。私も高校生の祖父に負けない「第二の青春」を送りたいものです。(邦雄) 

 

9月号編集後記

♠俳句の初心者との句会に参加して感じたのは、どうしても感情をストレートに表現してしまうということです。自分の感情を直接表さずに、物に託して表現するというのが句作の基本とは言うものの、初心者にとってはこれが難しい。しかし、初心者であれば生な表現でもいいから自由に句作する方が大切ではないのか、変に直さない方が本人の個性を伸ばすのではないか、とも感じます。改めて句作の心得をまとめたところ、やってはいけないこと、やるべきことが多く、上達への道は厳しいと再認識した次第です。(邦雄)

 

8月号編集後記

♠俳句でも絵画でも、趣味を楽しむ上で大切なのは、出来不出来よりも、

その趣味をどう味わうか、いいかえればプロセスに目を向けることだと思っています。あるコラムで趣味という言葉は英語のテイスト(taste)、「味わい」を意味するとありました。食べ物の旨さを噛みしめるという他に物事の面白味を感じ本質を考える、あるいは経験して味わうと辞書にあります。俳句のお陰で日本の詩歌にふれたり古典を読むようになりました。さらには水彩画に俳句と共通する考え方があることも発見しました。発想を変えて俳句を味わい尽くしたいと思っています。(邦雄)

 

7月号編集後記

♠ある句会で「須く」という言葉が使われていました。生憎、電子辞書を持っていなかったのでその句をとることが出来ませんでした。重次師は「辞書にあればどんな言葉を使ってもいいというものではない」と、平易な言葉で詠うことを指摘しています。「言葉は簡単に、思いは深く」が俳句の要とも言えそうです。もう一つ気になることに、テレビ番組のなかで選を受けた句の説明をすると言うことです。俳句は作者が正解をもっていて、読み手がその正解なるものを発見することではなく、読み手の独自性があっての鑑賞が俳句である所以と言えましょう。(邦雄)

 

6月号編集後記

♠趣味として俳句や絵などを始めると「上手下手」という言葉は気になるものです。初学のころは早く上手になりたいと、入門書などを読みあさりました。水彩画を始めて間もなく、画家の中川一政氏の随筆集にこんな一節を発見しました。「下手上手を気にするな。上手でも死んでいる画がある。下手でも生きている画がある」。これは俳句にも通じるのではないか。そこで最近は「上手な絵(俳句)」より「下手でも味のある絵(俳句)」を志したいと思っているのですが、何をもって「味」となるのか、模索は続きます。(邦雄)

 

5月号編集後記

♠十七文字の俳句の鑑賞は、三十一文字の短歌と比べて難しいと言えるでしょう。一句が描いている景を再現するには、季語の理解だけでなく経験や知識、さらには俳句特有の省略や表現法の馴れも必要です。また、その句の良さや面白味を捉えるには作者の感動や意図を受け取る心の準備といったものが求められます。他の人の選評を聞いてその句を取り損ねたと思うのはその心の用意が不十分だったからかもしれません。最近はどちらかというと面白味のある句を作って自分自身が面白がっている癖があり、面白い句、新味のある句に惹かれます。(邦雄) 

 

4月号編集後記

♠絵を描く上での基本はデッサン(素描)。入門書には見慣れたものや平凡なものをこれまでとは違う見方をすることが想像豊かなデッサンの基本とあります。視点を変える、ゆがめる、再構成する、シンボル化する、関係ない要素を組み合わせるなどなど。この発想法は俳句に応用出来そうです。重次師は「写生」と「描写」を区別して「俳句はいかに詠うかだ」「誰もが言うようには言わない」と。写真のように写しとるのではなく、見慣れたものを自分流に自由に描くことで新しい物の見方に出会い、思いもよらない作品ができる。これも絵や俳句の楽しさと感じています。(邦雄)

 

3月号編集後記

♠俳句には類想類句がつきものですが、そうでない句を作るにはどうしたらよいか。そんな事を考えていたところ、夏井いつきは「類句がダメという訳ではない。類想を土台に3~5音のオリジナリティを加える」と述べています。米国作家のオースチン・クレオンは「創造性を高めるにはコピーをしろ。そのスタイルの奥にある考え方を盗もう」としています。大いに真似をして、それに自分なりの味を付け加える。初学の方にお薦めする俳句勉強法という所でしょうか。(邦雄)

 

2月号編集後記  

♠30周年記念の「扉俳句手帳」を活用しています。句会に投句する句は勿論のこと、句会で選に入った句、入らなかった句の記録、印象に残った句、気になった措辞、初めて知った季語などのほか、兼題、連絡事項、宿題等々、句会に何する事はすべて書き溜めるようにしています。句会の記録帖でもあります。また、外出の際にもこの手帳を鞄に入れて、電車の中で思いついた句やアイディアを書いたり、白紙のお陰で時にはスケッチ帖にも変身。電車のなかでこっそり乗客を描いたりしています。たっぷりのページなのでゆったりと書けるのが嬉しいですね。(邦雄)

 

2023年

1月号編集後記 

♠透明水彩画の面白さのひとつに、絵具の混ぜ具合や水の量の違いで、思ってもみない色や効果が出ることがあります。言い換えればなかなか色をコントロールできない難しさでもあります。一方、俳句においても、例えば同じ季語でいくつも句を作っている内に、偶然に面白い句ができることがあります。これが「多作多捨」や諦めず作り続ける「俳句スポーツ説」が支持される所以でしょう。俳句も絵も「偶然」という自分では支配できない何かによってーーそれが素晴らしい作品になるならないは別としてー-心に言いようもない波紋が起きるのを期待するようになりました。(邦雄)

 

12月号編集後記 

♠一年遅れながらも扉創刊三十周年をお祝いする事ができ、会員の皆様と共に喜びたいと思います。俳句に興味の無かった私が定年間際に

扉に入会して十七年目、これまで続けられたのも主宰はじめ句友のお陰と感謝しています。断捨離で本を整理して残したのはほとんどが俳句関係の本。定年後を余生というなら、どれほど俳句に助けられ、暮しの彩りを増すことができたか・・・。。「継続は力なり」といいますが、挫折せずに今日に至ったことは私の人生の大きな宝でもあります。「重次俳論」の金言、格言を標に句作を続けていきたいと思っています。(邦雄)

 

11月号編集後記

♠西東三鬼は「枯れ蓮のうごく時きてみなうごく」の自句自解で、これが出来たのは池の端に立って一時間も凝視したからだとあります。戦後間もないこともあり、ここでの枯れ蓮は悲嘆に耐えている人間が動いたように見えたのを詠んだとしています。これが作風を大きく転換させる機縁になったそうです。これを読んで、初学の頃の俳句入門書に、たとえば、海を三十分でも観察して発見や感動を捉えなさい、といった解説があったのを思い出しました。これまでそんなに長いこと見つめて俳句を作った事はなく、そろそろ実行に移そうと思った次第です。(邦雄) 

 

10月号編集後記 

♠水彩画のスケッチをするようになり、俳句と共通するところがあると感じています。例えば「省略」です。スケッチ(写生)では主役となるモチーフを集中的に描き、余分な物は単純化や取り払うことなどを行います。写生とは見たとおりに描くことと理解していましたが、省略やデフォルメなどを加えることによって、描く対象を自分の感覚、感動に近づけるようにするのが絵画技法の重要な基本と言えましょう。俳句でも写生が句作の基本とされていますが、十七文字の器にモチーフを収めるのはなかなか大変な作業であると再認識した次第です。(邦雄)

 

9月号編集後記

♠山本健吉は俳句の本質は「滑稽・挨拶・即興」としています。重次師は

俳句の俳諧(=滑稽)には「ユーモアのエッセンスが基底に流れている」

と指摘しています。私は自然の景を詠むより日常生活に題材を拾い、

面白い句、自分でもニンマリするような句に仕上げることを楽しんでいます。それは連句の影響もあるかもしれません。発想を飛躍させ、連衆を驚かす俳味ある面白い付け句を作ろうとすることから影響を受けたのかもしれません。勿論、重次師の言う「上質な滑稽」を追いたいと思っているこの頃です。(邦雄)

 

8月号編集後記

♠俳句の鑑賞のなかでよく指摘されることに「季語が動く」があり、季語を別の季語に変えても、句そのものが成立してしまうことをさします。「季語が動かない」句というのは、事柄と季語がピッタリと合って、「響き合っている」といった鑑賞がなされますが、そうした句は少ないのが現状でしょう。どういう季語を配置するかは作者の感性の問題であり、その作品はそれとして読むのが順当なのかもしれません。季語にはその季感のもつ象徴性があり、私はその象徴性を頼りに様々な季語を当てはめながら句作をしています。(邦雄)

 

7月号編集後記

♠24色の水彩絵具には5つの緑色が入っています。手元の「日本の色」の本に紹介されている緑は39色。その語源は「みずみずしい」にあり、

新芽や若枝を差す語が色名になったそうです。季語と関係が深い色としては、海松色、木賊色、山葵色、鶯色などの他にも、千草色、裏葉柳、常磐色、青丹などがあります。散歩や公園、野山で見かける何気ない緑ですが、様々な名前を持つ緑色との出会いを楽しめるのも俳句の効用でしょうか。青と黄色の絵具の混色で20以上の緑色を作り出せるのも水彩画の面白さです。(邦雄)

 

6月号編集後記

♠無謀にも後期高齢者を目前にして水彩画を始めて半年になりますが、

絵の入門書を読んでもなかなか思ったような絵が描けません。そんな折り、論語のなかに次のような孔子の言葉を見つけました。「知之者不如好之者、好之者不如楽之者」(これを知る者はこれを好む者にしかず。これを好む者はこれを楽しむものにしかず)。この意味は「知識があるという人は、その事を好きな人にはかなわない。その事を好きな人は、それを楽しんでいる人には及ばない」と言うことで、要は、それを楽しく感じている人が一番だという訳です。この言葉に意を強くして、毎週スケッチ同好会に混じって、出来不出来は気にせずに水彩画を楽しんでいます。(邦雄)

 

5月号編集後記

♠句を仕上げるには推敲が欠かせません。漢字・仮名遣い・文法などの基本的なチェックはもちろんですが、詠んだ対象の情景や感動が適切に表現できているかどうか、季語や語順、措辞を練ることが大切です。それは語彙の問題ではなく、どの季語や言葉を選ぶか、字句の配置や比喩の使い方をどうするかと言う判断力であるとする意見もあります。 

私は「推敲」より多くの意味を持つ「練る」という言葉に惹かれます。何度もこねたり、のばしたり、固めたりする「練り」の感覚で推敲をやってみるのも俳句の楽しみのひとつのように思います。(邦雄)

 

4月号編集後記

♠いま、社会における多様性が重要なキーワードとして注目を集めていますが、重次師は「多様性のある作品は俳誌を活性化する」と述べています。ただ、その基本になるのは「一読句意明解」であるとしていますが、「明解」(わかりやすさ)と感嘆(おもしろさ)はイコールでは結ばれないところに、俳句の難しさがあるように思います。言い換えれば、一読して意味がつかめることが大事なのは、その後に出てくる面白さのためなのではないでしょうか。師の指摘する「一節」とはその面白さであり、作者の個性を感じさせる「発見」とも言えそうです。(邦雄)

 

3月号編集後記

♠年に数回楽しんでいる連句もコロナ禍のお陰で通信連句会となってしまいました。連句で大切なのは句の流れが後に戻らず進展することです。そのためには、付け句に発想の飛躍や豊かな想像力が要求され、写生とは違った創作力が鍛えられます。 飛躍といえば重次師も俳句に発想の飛躍が必要だとして、「常識にとらわれず、自己の発想を大切にすることだ」と述べています。この飛躍から個性的な句が、あるいは自分でも新鮮と感じる句が生まれるのかもしれません。それが「独善」であっても挑戦してみたいところです。(邦雄)

 

2月号編集後記

子規は「墨汁一滴」の中で「俳句に滑稽趣味を発揮して成功したる

者は漱石なり」と評しています。たとえば「永き日や欠伸うつして別れ行く」はユーモアを感じさせる反面、主観色のある句と言えます。漱石は

写生の句に偏することなく、むしろ自由に自分の言いたいことを俳句で

表現していたようです。重次師は俳句の本質の一つに「滑稽」があるとして、「反骨の精神ともいうべきユーモアのエッセンスが基底にある。季感に身を浸し、自然との親和の中で得られるものである」としています。 

「人間生活に出るおかしみ」を十七音で表現するのも俳句の楽しさと思います。(邦雄)

 

2022年

1月号編集後記

天気の良い朝にはテラスで日光を浴びながら句を作るようにしています。ネットで調べると日光浴にはビタミンDの生成、セロトニンの分泌、

免疫力の向上などの効果があるそうです。15分から30分程度、週3回が望ましいとのこと。ノートと辞書と季寄せを持ち出して、一日一句、調子が良ければ十句ほど作ります。特にセロトニンは「幸せホルモン」とも呼ばれ、やる気や幸福感につながる脳内物質であり、精神を安定させストレスを軽減する効用があるそうです。手のひらを日光に当てるだけでも

効果があるとうい一石二鳥の日光浴を楽しんでいます。(邦雄) 

 

12月号編集後記 

♠近所の地区センターの水彩画教室に参加しました。課題は先生の絵の模写ということで、早春の風景画を選びました。本格的な水彩画は初めであり苦労したのは同じような色を作り、紙に色を重ねて、光の陰影、奥行き、筆の勢い(タッチ)を合わせることでした。ともかく無心の時間を過ごしました。安野光雅は「模写は先人の技術を学ぶだけでなく、原画を描いた人が一筆ごとに思っただろう、その心境に自分の心を重ねることでもあろう」と述べています。俳句にも通じることのように思います。(邦雄)

 

11月号編集後記

♠ある高校で自由研究コンテストの対策として、過去の入賞作品を穴があくほど観察し、可能なところは徹底的に模倣することから始めたそうです。それをベースに変更や自分らしさを付け加えることを繰り返すうちにオリジナル作品に昇華したとの新聞コラムを読みました。「学ぶ」の語源は「真似ぶ(まねぶ)」とも言われており、重次師の「師破離」(師を真似て学び、師を超えて、師を離れていく)にも相通じることのようです。この観察・模倣によって自信をつけた生徒たちは俳句にも挑戦しているそうです。われわれも負けてはいられません。(邦雄)

 

10月号編集後記

♠著名な批評家・詩人の「机の前に座ったからと言って、いい考えが浮かばない。でも、座ったことで次の作品に必ず影響がある」とのコメントをみつけました。それを長年続ければ大きな違いが出てくることを「無形の蓄積」と呼び、このことはあらゆる事に通用すると。書けない結果は同じでも座ることが大切ということでしょう。一日一句で毎日机に座るのですが、気分が乗らないときはなかなかいい句が浮かばないものです。でも、できなくても毎日机に向かうことが「蓄積」になるということに意を強くしました。小さな習慣が変化をもたらす「習慣の力」とも相通ずることかもしれません。(邦雄)

 

9月号編集後記

♠私たちが幸福感を感じるとき、脳内にはそれを引き起こす「脳内物質」が分泌されているそうです。そのひとつに「オキシトシン」があります。この働きは「つながり」の幸福感をもたらすもので、例えば、一緒に食事をする、握手などのスキンシップをする、人との交流を深める、人を褒める、人に親切にする、あるいは親切にされる時に分泌されるとのこと。その点からすると句会はオキシトシンを出すのに有効な場とも言えそうです。俳句を通じてのコミュニケーション、感動の共有、よき人間関係作りなど、オキシトシンが出る環境は揃っています。早くコロナ禍が収まって、また元のような句会や飲み会を楽しみたいものです。(邦雄)

 

8月号編集後記

♠俳句を楽しむようになり、季語はもとより言葉に対する関心が深まったことは明らかです。毎月の扉の校正で初めて出会う言葉や漢字は十語以上にのぼり、ここ十年ほど書き留めたノートは私の貴重な「俳句用語集」となっています。 読み返すと難読漢字や古語に関する言葉が多く、

かつ、日常生活では目にしない古来からの日本文化に係わる日本語が目立ちます。お陰で私の語彙だけでなく日本文化の理解を広げてくれる

効用もあります。 これは俳句が文語文法を基本にしていることから来ているのかもしれません。そうした言葉が俳句の格調を生んでいる側面もあるかと思います。『扉』から多くのことを学んでいます。(邦雄)

 

7月号編集後記

♠三十周年記念特集を何度か読み返しています。なかでも自句自解から皆さんの暮らしぶり、家族の思い出、自然に対する感動などを伺え知ることができます。日常生活のありふれた「家族写真」「一杯の真水」「花八手」「無題の絵」は、作者の心に声ならぬ「声」が形として現れ、作者の思いが込められた個人的な俳句として生まれたのでしょう。そこには佳句といった事では測れない、通り一遍の鑑賞では読み込めない作者のドラマが潜んでいることが判ります。俳句は日本の風土と生活を基盤に、自分のために作る庶民の詩であることは間違いありません。(邦雄)                  

 

6月号編集後記

 ♠2012年8月号から書き始めた編集後記はこの6月号で107回目となります。300字程度の短い原稿ながら、毎回頭を悩ませ、身辺雑事だけでなく俳句を作る上で役に立ちそうな面白い情報を提供することを心がけてきました。新聞、雑誌、テレビなどからテーマになりそうなことを見つけるとメモする習慣ができました。そのメモをベースに短文に仕上げることは文章訓練にもなり、頭の健康法の実践に繋がっています。

♣私は毎晩夢を見ます。肉眼で見ていないのに「見る」というのもおかしいのですが、万葉集の時代では「見る」ことは目に見えない何ものかに触れることを意味していたと白川静氏が述べています。さらには新古今集の時代になると、月を、鳥を「眺める」ことは、夢で異界に触れるような経験に導くというのです。「見る」あるいは「眺める」とは肉眼だけの働きではないことをこれらの古典は教えてくれます。そうしたいにしえの日本人の感覚が俳句にも息づいているのではないでしょうか。

♥皆様のおかげで30周年記念特別号は読み応えのある内容となりました。30周年はひとつの区切りであり、また新たな出発点でもあります。これからも大いに俳句に遊び皆様と俳句を楽しんで行きたいと願っています。

♦「俳句は出発した年齢や俳歴の長さが問題なのではありません。いかに自分が俳句とかかわったか、その密度の問題だと思います。」(重次師)  (邦雄)                                  

  

5月号編集後記

 大槻一郎さんの「水琴抄」、会田比呂さんの「同人作品鑑賞」が今月号で最終回となります。わずか一七文字の言葉から句のイメージをつかみ出し、言葉の裏にある作者の思いを読み取とり、俳句に新たな命を吹き込むのが鑑賞であり、そこに正解はありません。時には作者の意図とは違う鑑賞もありますが、それは鑑賞者の個性の現れでありそうした鑑賞に出会うのも俳句の楽しさであり、俳句の力ではないでしょうか。お二人の鑑賞はまさに「作品によって触発された自己の世界を展開するもの」

(重次師)を実践された内容と言えます。お二人に厚く御礼を申し上げます。(邦雄)

 

4月号編集後記

 編集作業にはパソコンが欠かせませんが、句作はもっぱら手書きです。6Bの鉛筆でノートに殴り書きをして、その後パソコンに入力して整理しています。ネットで脳機能の低下を防ぐには「手書き」が有効との脳神経専門医の記事を読みました。文字を書くためには手を使いペンを握ることで指先を繊細に動かすため、脳をフル稼働させる効果があるとのことです。その医師のトレーニングは見た、聞いた、行ったことを振り返って箇条書きでもいいからノートにまとめる事だそうです。句作はうってつけの脳のトレーニングでしょう。(邦雄

 

3月号編集後記

 高浜虚子は俳句を、安らぎや心の糧、病苦と闘う勇気を与える「極楽の文学」と説き、花鳥風月に遊んで人生を楽しむ事が俳句の生命であるとしています。いま、コロナ禍のなかで不安やら腹立たしいことだらけで心が萎えるばかりです。でも、そんな嫌な出来事も句材にしたり、身近な人の不幸や家庭内の諍い、あるいは自分自身に対する苛立ちなど、日常茶飯事の出来事を俳句に詠むことで、胸のつかえがとれ気持ちが軽くなることを感じることがあります。これも俳句の効用といえそうですが、なにより句を鑑賞し共鳴してくれる句友がいればこそでしょう。(邦雄) 

 

2月号編集後記

 昨年1月号の編集後記で「一日一句」の継続を今年の抱負と書きましたが、なんとか完遂できました。時には二日分を作ることもありましがた、概ね毎朝、机に向かった最初の作業と言うかお勤めとなりました。

元々、故小沢昭一が「とにかく一日一句で粗製乱造してきた」と書いているのを見てやってみようと思っていたのですが、一年間続けることで、パブロフの犬のような条件反射が出来上がったのが大きな収穫と思っています。馴染みのない季語を選んで自由奔放に作っています。三百六十五句を読み返して、中には自分が作った句ではないように感じる句のあるのが可笑しいですね。(邦雄)

 

2021年

1月号編集後記

 扉」創刊三十周年記念特別号の原稿締切は今月十五日です。締切までまだ三週間弱ありますので、とにかく筆をとってみてください。思いつくまま書き出せば何かが生まれるはずです。すぐには出来上がりませんが、書いている内に思っていることが形になってきます。自選句はこれまでの自分の作品から気に入った八句を選び、その内の一句が自句自解となります。合同句集にはできればすべての会員の句でまとめたいと願っています。入会間もない方も奮ってご応募ください。二九頁にある通り三十周年記念全国大会は来年の開催となりますが、記念特別号は予定通り六月に発行します。皆様の奮ってのご応募をお待ちしております。(邦雄)

 

12月号編集後記

 初めて歳時記を手にしたときに、風に色があり、嵐に野菜の名前がつけられ、様々な月があることを知り、日本語の豊かさに魅せられました。同時に、変化に富んだ季節や生活を表現する日本語の多様さに圧倒されました。また、句作を通じて日本語の魅力や使い方の難しさを学んできたように思います。作家の井上ひさしは「日本語とは精神そのもの。一人一人の日本語を磨くことでしか未来は開かれない」と述べています。それにしても、最近の政治家の言葉の薄っぺらさには呆れてしまいます。「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく」という彼の言葉をもう一度噛みしめたいものです。(邦雄)

 

11月号編集後記

 「重次賞」は第五回目を迎えます。今回は「扉」創刊三十周年記念全国大会での表彰を予定しており、会員の皆様からの奮ってのご応募をお待ちしています。重次師はこうした賞に応募するのは「俳句との関わりの確認」になる述べています。毎月の投句の他にも、入門書や俳句雑誌、句集、俳論を読んだり、俳句との接触は多面的であり、それらの積み重ねは必ず本人の蓄えとなっている。それは自分の作品の変化、作品を見る目の変化に繋がっていると。もちろん他人の作品に対してもそうであると。その変化を確認するだけでなく三十周年記念を盛り上げる意味でも「重次賞」にご応募くださるようお願い申し上げます。(邦雄)

 

10月号編集後記

 旅行もトレッキングもままにならない今日この頃、家に籠りパソコンに向かって作業する時間が長くなりました。そんな折り、ユーチューブには「癒やしの自然音」と言った動画があることを発見。これは、川や森の風景動画の中に、渓流のせせらぎ、野鳥の囀り、蟬の声などの自然音が流れるというものです。せせらぎの音であれば、ただただその音が流れるだけなのですが、背景の森の中を流れる川の画像と相まって、リラックスして作業ができるようになりました。以前はジャズなどの音楽を聴いていたのですが、今はもっぱら「自然音」を楽しんでいます。でも、早く自然のなかで聞きたいものです。(邦雄)

 

9月号編集後記

 俳句を始めてから花や草木の興味を持ちましたが、公園で出会った花の名前が分りません。植物図鑑など購入したものの、散歩で見た花を調べるには不便。そんな中、植物や花の名前を表示してくれるスマホのアプリを発見。花であれ実であれ、葉っぱであれ、スマホで写真を撮ると瞬時にその名前を判定して表示してくれるという優れものです。公園はもちろん道端に咲いている花や植物を片っ端から撮影してその名前を確認しています。お陰で散歩が楽しくて仕方がありません。私の通うスポーツジムで見つけた小さな花は「灸花」。早速一句。

  足腰のとみに衰え灸花                       (邦雄)

 

8月号編集後記 

 1月号で飯田龍太の「一日一句」の勧めを書きましたが、この半年ほど朝一番の作業として「一日一句」を続けています。机での句作ですからほとんどが題詠となります。歳時記を開いてその日の節気の季語を使ったり、俳人の句のもじりや気になる言葉やフレーズを使っての句作です。その言葉を引き金にして記憶を呼び起こし、想像力を働かせてとりあえず五七五にしてみる。紙に言葉を書いてみることで想像や気づきが動き出す。その五七五からまた違った言葉や風景が浮かんだりするのです。これは連句で学んだことでもあります。想像といっても自分の経験から生まれた心の中の風景といえましょう。そして一句に簡単な感想やコメントを書き添えるのが私流の一日一句です。(邦雄)

 

7月号編集後記

 新型コロナウィルスのために様々なイベントや集会が中止となりました。句会も例に漏れず、ほとんどの結社が中止あるいは通信句会に切り替えました。お陰で何度も句を読んだり季語や分らない言葉を確認することから、時間をかけて鑑賞ができるという効用が生じました。とは言うものの、やはり句会は皆さんと顔を合わせ意見を交換するのが一番です。

肉声には本人の感情が含まれており、選句に対する共鳴度や採れない理由などを知ることができます。教育の場でもインターネットの導入が進みそうですが、人間の情緒を育てるのは人と人との関わり合いによる共同作業、共感、葛藤、あるいは思いやり、笑い、悲しみなどを経験することであると思います。(邦雄) 

 

 6月号編集後記

 山本健吉は俳句の特徴を「滑稽、挨拶そして即興」の3点を上げています。重次師も「滑稽」が俳句の本質の一つとしており、俳諧には「反骨の精神とも言うべきユーモアのエッセンスが基底に流れている」と指摘しています。私も意識して俳諧味のある句を作るのですが、なかなか思ったようには作れません。やり過ぎると川柳の様になってしまう。その方法論はよくわかりませんが、ひとつ言えることは物事を見る角度を変えることだと思います。常識とされることをひっくり返して見てみる。そんなことを続けるなかで思いかけず出来る一瞬が俳句の面白さなのかもしれません。その句が滑稽かどうかは句会で選を入れてくれる句友の評価次第ではありますが。(邦雄)

 

5月号編集後記

 毎号掲載の「自句自解」ではその句が詠まれた背景や思い出、

感動などが紹介されており、作者の日常生活のなかのドラマが

読み取れます。「俳句は日常生活の中の呟きの表現である」とする俳人もいますが、写生句は別として、作者の生活の中の風景や内面の吐露などを詠んだ句稿を通じて、その作者の家族関係や

夫婦関係、趣味の世界や友人関係、様々な過去の出来事や現在の暮らしぶり、あるいは主義主張などを伺い知ることができます。そう考えると、連衆は俳句を通じてプライバシーを曝しているとも言えますが、これもお互いの信頼があってこそであり、「俳句の力」とも言えそうです。(邦雄)

 

4月号編集後記 

 久しぶりに連句を楽しみました。今回は四人のメンバーで伊豆のホテルに泊まり込み18句を巻きました。到着時からチェックアウトまで計八時間の長丁場でしたが、終わってみると短い時間というのが実感でした。連句は写生句とは違って想像力逞しく前の句に付けるものですが、春、月、恋などを織り込むルール(式目)があり、雑句と言って無季の句も要求されます。即興で予期せぬ句を付けて場面を展開させていくのを連衆で楽しむ句会と言えます。その中で何を詠んでもいい雑句が難しい。季語と十七文字の俳句の定型があればこそ、最も短い詩型として受け継がれていると思います。(邦雄)

 

3月号編集後記

 扉集鑑賞が今月で最終回となります。この2年間、土田笙さんは全身で句稿を鑑賞され、毎回「俳句賛歌」とも言える鑑賞文を寄せて頂きました。その軽妙なタッチの鑑賞文は句の作者には自信と勇気を与え、読者には句の隠し味を示してくれたのではと思います。「選は創作なり」と言ったのは虚子ですが、鑑賞によっって俳句の新しい様相を解き開くような読みこそ創造的鑑賞と言えます。そのためには、時間をかけてじっくりと句を読み込んで、季語の斡旋や言葉の措辞から受ける共感、イメージを作り上げる。できれば短い文章にしてみる。「鑑賞とは作品によって触発された自己の世界を展開するもの」と重次師は述べています。(邦雄)

 

 2月号編集後記

 詩人で翻訳家のポーター・マクミラン氏は、長谷川かな女の俳句「悲しいけれどもクリスマスの夜の父ありぬ」を英訳して、「俳句は小さなダイヤモンドのようだ」と感想を述べています。短歌より解釈の自由どうが高いことを実感しただけでなく、この「心深い一句に一体化してしまうほど共感した」と吐露。この句によって10年前に他界した父のことが思い起こされ、父のありがたさが腑に落ちたとしています。このことから、最短詩である俳句は決して日本人だけのものではなく、詩心のある外国人にとって心を震わせる力のある詩であることが分ります。「扉」のウェブに土生重次の俳句を英訳して掲載していますが、もっと多くの外国人に俳句の良さを知ってもらいたいと願っています。(邦雄)

  

2020年

1月号編集後記

 時々、古書店に寄って俳句関連の本を購入しますが、先日、飯田龍太の随筆集『思い浮かぶこと』を入手。その中で、俳句が上手くなるにどうしたら良いのかという質問対して「毎日一句を日記にでも書き付ければ、

三百六十五日目には自分自身の俳句が生まれているはず」と答えている件を見つけました。十句生まれた場合でも一句を残す。毎日作ることは根気がいるし、十句の中から一句を選ぶことで自選の力が増すとのこと。これに意を強くして先月から始めた一日一句を今年一年継続する。

これが今年の第一の抱負です。ちなみに、「すべての季節について、自分の好きな先人の秀句を一句だけ記憶しておく」というのも挙げています。(邦雄)

 

12月号編集後記

 俳句入門を再読すると、初学の頃に理解できなかったことがなるほどと思うくだりを発見します。これも俳句に十数年浸っていたお陰であろうと感じます。ある武道家は強くなろうと思うのではなく「昨日の自分」と比較することが大切であると指摘しています。表現は異なりますが、重次師は

「俳句は変化を見つける詩であり、それは『何を』の変化を探し求めるのではなく、『自分の変化』を見つけることである」と述べています。そのためには日常的に俳句を楽しむための環境を整え、俳句三昧の生活を送ってみる。そうしたことから、小さくてもこれまでと違う自分が見つけられれば、それも俳句の楽しさではないでしょう。過去に挫折した一日一句に挑戦です。(邦雄)

 

11月号編集後記

♠出光美術館の「芭蕉展」を見ました。今年は芭蕉が奥の細道の旅に出て330年。これを記念して、芭蕉の書画や敬愛する人たちの作品展示会です。中でも芭蕉直筆に感動しました。その筆跡は流麗にして優雅。また、芭蕉の発句自画賛<はまぐりのいけるかひあれとしのくれ>の俳画も俳味溢れるものです。これに触発されて本箱から芭蕉関連の本を取り出して読み直しています。初学の頃は良く判らなかったことが、なんとなく身近に感じるようになったのも展覧会の効用でしょうか。また、時々自己流で墨字を楽しんでいるのですが、芭蕉の書跡までは到底無理としても、仮名の書を学ぼうと鴨居道の書をなぞりはじめたところです。(邦雄)

 

10月号編集後記

♠独り言には自分の考えを整理する効用があり、子供が良く独り言を言うのはその練習なのだそうです。独り言は何かを考えてるときに無意識に出てくるのですが、それは人との対話と同じような脳の活動が認められとのこと。言い換えれば、独り言とは考えをまとめる自分との対話であり、人との会話は考えを共有する作業となります。俳句は自然や生活の中で得た風景や想いを言葉で写し取り表現する文芸ですが、ある意味、その過程で自分との対話から生まれ作品であり言葉が決定的な役割を担っています。言語学者によると、言葉があるから人間は現在・過去・未来の時間を認識することが出来たそうです。芭蕉の「舌頭千転」は自分との対話による推敲を勧める言葉とも言えましょう。(邦雄)

 

9月号編集後記

♠毎回、例会に投句する3倍ほどの句を作り、その中から良さそうな句を選んで投句しているのですが、実のところ、その中の句のどれが一番良いのか、いわゆる自選になかなか自信が持てないでいます。そんな折、高浜虚子の『虚子俳句問答』を読んでいたところ、「句作五十年の私でさえ、作った当座は自分の句の善し悪しが分りかねることが往々ある」との記述を読んでいささか安心しました。私が予想していた以上に虚子は俳句を楽しむことを優先に、かつ自由に句作を勧めていると、この本を読んで感じました。

 第四回重次賞の募集が始まりました。重次師は「入賞するしないにかかわらず、その作者の俳句との関わりの一断面の確認であり、作品を見る目が変わっていることを確認するのが応募の意義」としています。奮ってご応募ください。(邦雄)

 

8月号編集後記

NHKの番組の中で、AIは知性を持てるかという議論のなかで、知性とは一人の個人だけで身につくものではなく、家族、友人、社会など集団から得る集合知であるとの指摘がありました。従って、AIが知性を持つことは疑問という結論でした。これを俳句に照らして考えると、俳句はもともと「座」の文学と言われてきており、それは、小さな形での「集合知」とも言えそうです。「座」の中で選句され、鑑賞や批判がなされ、場合によっては提案も出されること自体が「集合知」を作り上げている側面、言い換えれば「個々人の判断を集計して集団としてのひとつの判断に集約する仕組み」(=集約性)があるからです。その他、「俳句の多様性」や「俳句の個性」「俳句の普遍性」などを考えると、一人で作る俳句より「座」あるいは「結社」を拠点とすることの価値を見いだすことが出来そうです。(邦雄) 

 

7月号編集後記

♠大学を卒業して入社した会社の東京本社が日本橋にあり、東北の田舎から出てきたばかりで無我夢中の会社生活が始まった頃を思い出しました。3年ほどで移転したこともあり、三越側にある路地など殆ど歩いたことがないことに気がつきました。仕事が忙しくかつ、お金もなく殆ど会社と寮の往復で、夜、路地裏を徘徊する余裕もない会社生活でした。それからおよそ半世紀が過ぎた現在、今回の吟行で日本橋の大きな様変わりだけでなく、江戸から続く老舗のいくつかが健在であることを改めて認識した次第です。なんと言っても懐かしいのは「たいめいけん」でした。当時の私にとっては贅沢なオムレツとボルシチスープの昼食が忘れられません。(邦雄)

♣久しぶりに新宿の小劇場(110名収容)で演劇を見ました。映画「幕末太陽傳」の川島雄三監督を軸に映画を作る裏方たちの悪戦苦闘の物語です。舞台は観客席を二つに分けた3mx8mほどの平台。簡単な小道具だけで繰り広げられる演技はまるで「俳句的演劇」。手を伸ばせば俳優に触れる程の距離空間故に、出演者の一挙手一投足、目や眉の動きさえ見えるのは迫力充分。時間を忘れて見入りました。(邦雄)

 

6月号編集後記

♠『扉』4月号の遊歩道で、会田比呂さんが小学三年生の俳句「水瓜割り誰が割るかな甘いかな」の句の素直さに感動されたと書いております。芭蕉の「俳諧は三尺の童にさせよ。初心の句こそたのもしけれ」という言葉は、技巧に走らず、素直な感性こそが人の心に響くのだという教えでしょう。俳句をひねることに慣れ、新鮮味がなくなってきた私にとって、理屈や常識を離れた子供の俳句がお手本になる事もありそうです。そこで、本誌の40頁にある通り「子供の俳句」のコラムを開設することになりました。五七五であればあまり季語に捕らわれないで自由に詠んだ俳句を採り上げたいと思っています。お子さんも句稿が本誌に掲載されることでさらに俳句に対する意欲が増すのではないでしょうが。奮ってお寄せください。

♣副編集長の石井秀樹さんが四月三〇日にご逝去されました。坂元主宰就任と同時に石井氏と共同で『扉』誌の編集に携わってきましたが、四月の初めに入院先の虎ノ門病院でのお見舞いでお話をしたばかりだったのですが。編集後記では句作に対する真摯な文章を寄せており、五月号の「風樹集」に記した「次の時代の香りが感じられる句ができれば」が最後の言葉となりました。合掌。(邦雄)

 

5月号編集後記

  最近カメラの調子が悪いので新しいものに買い換えました。ポケットにも入る小型デジカメで、外出の折には常に携えて、路上で興味を引いた風景や光景、風情に出会えたら何も考えず気楽にすぐさまシャッターを押しています。この瞬間が楽しいのです。作家の赤瀬川原平は「意味はなく味があるという写真はいわば俳句である」と述べており、私の撮り方は「俳句的撮影法」と言えそうです。パソコンで写真を取捨選択して整理し、その中から面白そうなものを選んで俳句を詠むのが最近の楽しみとなっています。(邦雄)

 

4月号編集後記

 最近の子供たちの遊びを見ていると、プレイステーションやスマホのゲームに夢中です。ようやく1歳になった孫でさえ、スマホのゲームに釘付けです。こうしたゲームはどうも遊戯という言葉になじまない遊びに感じます。遊戯を辞書で調べてみると、束縛を脱して自由自在の境地にあることを意味する仏教用語とあります。確かに、子供の頃、時間を忘れるほど夢中になって遊んだ記憶があります。そして、そこには一緒に遊ぶ仲間がおり、公園やお寺や川の風景が一緒になっています。スマホでは画面を見ながら遊ぶ一人の姿しかありません。古代の哲学者は、「人間にとって美しい遊戯を楽しむことが最善の生き方」と記しています。俳句もその遊戯の一つに当てはまるのではないかと思う次第です。(邦雄)

 

3月号編集後記

 日本語の表記には平仮名、片仮名、漢字のほかにローマ字表記の四つの表記を持つ類まれな言語体系を持っています。従って、日本ではローマ字(英語)が入る詩歌も可です。英語の詩に仮名文字が入ることは考えられません。いま始まったことではありませんが、日常生活の中でも例えばPOLICEなど英語表記が当たり前のように氾濫しています。よく言えばそれだけ日本語は柔軟で豊かな言語と言えましょう。さらに、十代が使うスマホやSNS(ショーシャルネットワーク)での造語や略語の豊かさ乱れ?)には驚かされます。一方で教科書を読めない、つまり読解力の低い子供たちが増えているという現実もあります。言葉は常に危機にあると言われますが、日本語の未来がどうなるのか想像がつきません。(邦雄)

 

2月号編集後記 

 重次師は「真剣に遊びかつ緩急自在に遊ぶ心が俳句に大切だ」と述べています。その中心にあるのが句会でしょう。誠実さをもって自分の主張や批判を述べ、かつ相手の意見や鑑賞を受け入れる。いわば大人が本気で俳句を物にしようとする共同作業の場が句会とも言えます。そのためには俳句の知識を深めることや、言葉に対する感覚や韻文を作る上での表現技法を深めることが求められます。そんなことでは遊びになるのかと反論が出てきそうですが、「真剣に遊んだ方が充実感、満足感がある」(重次師)というのが本来の遊びではないでしょうか。勿論、それ以外にも様々なジャンルの本を読むとか絵画の鑑賞や新しい映画を見ることとか、それこそ「緩急自在」に遊ぶこと(あるいは遊ぼうとする心)を忘れないようにしたいものです。(邦雄)

 

2019年

1月号編集後記

 30年ぶりに囲碁を再開しました。会社OB会の同好会に入会し、棋力を認定してもらったところ4級。会のメンバーはほとんどが有段者で、なかなか勝つことができません。勝ち負けがはっきりする世界であり、負けが続くと気持ちが塞いできます。しかし、勝ち負けにこだわらずにどれだけ真剣に数多くの対戦を行うか、同時に詰碁や棋譜を並べるようなことを数多くこなすかが、上達の道との先輩のアドバイス。現在、入門書や布石の本を読みあさっているところです。会員の平均年齢はご多分に漏れず

70歳後半で私が若手の新入会員です。ちなみに、日本棋院は正岡子規が囲碁にも造詣が深いとして昨年、囲碁殿堂入りに選出しています。

碁に負けて忍ぶ恋路や春の雨   子規

下手の碁の四隅かためる日永かな 

                                       (邦雄)

 

12月号編集後記

 日本医師会が奨励している高齢者の健康法をご紹介しますと、
①一読:日に一度はまとまった文章を読む。
②十笑:日に10回くらいは笑う。
③百吸:日に百回くらい深呼吸をする。(一度に十回ほど)
④千字:日に千字くらいは文字を書く。(こまめに書く)
➄万歩:日に1万歩を目指して歩く。
この中で難しいのは「千字」でしょうか。文章を書くことは認知機能を高めると あります。パソコンでは結構文書を作るのですが、手書きとなると俳句と簡単な日記程度です。 NHK特別番組の中で健康寿命を伸ばす要素として「よく本や雑誌を読む」ことをあげていました。俳句を楽しむことも健康寿命を延ばす最適の趣味ではないでしょうか。(邦雄) 

 

11月号編集後記

 小学2年生の孫娘が遊びに来たので、何でもいいから五七五の文字で文章を作ってみよう。それが俳句だよと誘ったところ、あっという間に三十句ほど作りました。「昨日はね満月浮かぶオレンジだ」といった具合に、指折り数えて、見たこと、思ったこと、家族のことなどを五七五のリズムでいとも簡単に作ったのです。ところが、私の元同僚や友人に会うごとに俳句を勧めるのですが、殆どが「私には才能がないから無理」と断ります。最初からブレバトの1位になるような句はできるはずはないのですが。芭蕉の言葉に「俳諧は三尺の童にさせよ」というのがあります。これは「俳諧は正直に素直に詠みなさい」と言うことを意味しますが、そのためには感受性が必要でしょう。孫娘に教えられた一日でした。(邦雄)

 

10月号編集後記

 8月中旬から2週間ほど入院手術をしてしまいました。その1カ月程前の自転車転倒で脳内出血(慢性硬膜下血腫)が発病したためです。幸い後遺症もなくパソコンが打てるのでホットしています。「扉」9月号の校正後の入院、10月号の校正前に退院できたのも幸いでした。入院の際に句集を持参して波郷のように病床俳句でも詠もうかと思ったのですが、頭痛が続いては上手くいきませんでした。 坂の多い鶴見なので気をつけながら自転車に乗っていたのですが、ちょっとした気のゆるみから大ごとになってしまいました。まだ若いと思っていても反射神経、筋力など落ちてきていると実感しました。中野先生のご指摘にあるように、サルコペニアやフレイルにならないよう無理をしない程度に身体を鍛えたいと思っています。(邦雄)

 

9月号編集後記

 俳句が海外に紹介されてから百年以上が経ち、海外で俳句を愉しむ人が増えています。昨年にはユネスコの無形文化遺産に登録しようと俳句団体が中心となっての推進協議会が結成さました。海外での俳句は自国語で歌う3行詩「HAIKU」として広まっており、厳密な意味では私たちが詠む俳句とは異なるもので、いわば「俳句的感性」のある英詩と言えましょう。ウェブには海外の英語俳句のサイトがありますが、日本の俳句を英訳したサイトはあまりありません。そこで、少しでも日本からの俳句の発信に役立てればとの思いから土生重次の英語俳句のページを「扉」のサイトに立ち上げました。取り合えず私が書き溜めていた34句をアップしましたが、会員の皆さんと一緒に増やしていきたいので、ご協力いただける方の参加をお待ちしています。(邦雄)

 

8月号編集後記

 句会では採った句に対して採った理由あるいは感想を述べますが、その際に私はその句から触発されたイメージ、共感したことなどを述べるようにしています。一方、採らなかった高得点の句に対しての「採らずの弁」もできるだけ述べるようにしています。それは結社の機能には俳句を生み出すだけでなく、俳句を鑑賞し、味わい、そして評価する機能もあると思うからです。重次師は「連衆は創造集団であり、井戸端会議なみではその機能は欠落する。知的情熱のぶつかり合うレベル」を求めています。もちろん鑑賞も大切であり、「作者の20%の表現を100%まで世界を広げるのが鑑賞者」(重次師)とするなら、作品を深く読み、きちんと 

評価し、ときには批判するという意識も持ちたいと思っています。(邦雄)

 

7月号編集後記 

 洋画家・熊谷守一をモデルにした映画『モリのいる場所』を観ました。

庭に寝転がって蟻の行列を観察する顔が印象的でしたが、晩年に描いた花や虫、鳥、猫など身近なものをモチーフに、単純な構図と大胆な配色をほどこした作品は世代を超えて多くの人に愛されており、私の好きな画家のひとりです。二科会に属した初期の頃は暗い画風でしたが、60歳を過ぎたころから一見ユーモラスで単純な絵に変容しました。そうした作品の陰には様々な工夫や探求が伺え、鋭い観察眼と高度な制作手法が隠されています。俳句にも観察力と17文字に景を押し込める手法が求められますが、見えないところでの工夫が肝要のようです。ちなみに『扉』表紙挿画を提供いただいている友人の矢野兼三氏も二科会会員です。(邦雄)

 

6月号編集後記

 日常生活で気分を変えたいときには新しい服を着てみることがあるかと思います。そして、お洒落な服を着ると自信がついたような、これまでの自分とは違う自分が鏡の前に現れた気分になりませんか。

 今月号から紙の色を変え、レイアウトなどを若干替えました。いわば本誌の気分転換です。私が編集に携わるようになり6年目に入る機会に、マンネリから抜け出だそうと替えてみましたが、いかがでしょうか。読みやすさを高めるために句稿を均等幅から成り行きにして、誌面にスペースを取るようにしました。また、扉集も頁あたり4人の句を掲載することで、

これまで以上に読みやすくなったのではと思います。新しい服は最初はなかなかしっくりしないかもしれませんが、そのうち馴染むことでしょう。皆さんも俳句での気分転換を図ってみてはいかがでしょうか。(邦雄)

 

5月号編集後記

  以前、編集後記でも書きましたが、年に3~4回ほど少人数で連句を楽しんでいます。3~4分で付句を作るというルールなので、即興の瞬発力、発想の個性、飛躍の高さなどが求められ、いつもの句会とは全く違った興奮が沸き起こります。先日、榎本城生さんから「巣箱の会」の句会報をまとめた小冊子をいただきました。会では兼題の他に句会の当日に

出される席題で作句していたことを知りました。「席題は俳句的刺激を求め合う、発想を磨く、纏め方など、スリルとサスペンスに飛んだ俳句的発想の涵養につながるでしょう」(重次師)これまで培った知識や技量をフルに働かせる必要があり、写生句とは違った想像力を試される俳句を詠むのも楽しいことです。次の連句会では席題も入れてみようかと思っています。(邦雄)

 

4月号編集後記

 10年前はコンピュータ囲碁などまともなものはできないだろうと言われていたのが、今や世界のトップ棋士に圧勝するまでのAI(人工知能)囲碁ソフトが出現。AI囲碁はこれまでの定石にない新しい手を提示するようになり、プロ棋士はその新手を取り入れているとのこと。この背景には「ディープラーニング」の進化があり、この手法を使うことにより、産業・金融はもとより、社会生活、文化の面でも大きな変革をもたらすと予測されています。ある大学では俳句を通してAIが不得意とされている「感性」や「独創性」の開発に挑戦を始めています。西東三鬼は「俳句の修業とは感覚を磨くことで、感覚が鋭利になったらそれが俳人の開眼である」と述べていますが、AIに負けないよう感覚、感性を研ぎ澄ませたいものです。(邦雄)

 

3月号編集後記

 ロックミュージシャンの後藤正文は音楽にとって最も重要なのは「聴く技術」と述べています。ロックバンドなど複数の人が集まって合奏する場合、それぞれの走者が譜面通りに書いてある通りに演奏できたとしても、全体のズレや揺らぎに合わせられなければ、演奏の良さにはつながらないのだそうです。そして、音の良しあしを聞き取れなければ、自分の演奏の良しあしも判断できない。つまり、演奏力とは「聴く技術」だと結論付けています。 俳句に置き換えて言えば俳句力とは「見る技術」(写生力、感受性)と言えそうです。しかし、座の文芸である俳句にとっては、「読む技術」(鑑賞力)が要求されます。17文字では書かれていない背景や状況を読み解く力です。この二つが求められるところに俳句の特質があります。(邦雄)

 

2月号編集後記 

 忌日俳句と言うのがあります。土生重次は二十五ほどの忌日俳句を詠んでいますが、そのうち十句が西東三鬼の忌日俳句であり、重次にとって三鬼は特別の存在の俳人だったことが伺われます。

    ガスの炎の芯の黄ばみて三鬼の忌 重次

忌日俳句のポイントは故人の人物像、業績、イメージと実景との取り合わせるのかにあり、二つの措辞が響きあって「忌日」に新たな息吹が出るか、実景に芯が入るかどうかがカギとなるでしょう。忌日を単純に時節を示す季語として用いるのであれば簡単でしょうが、取り合わせの妙味に忌日俳句の面白さがあります。故人を知らないと作句も鑑賞もできない難しさがありますが、上手く嵌った時の快感は格別です。ちなみに私にとって好きな忌日の一つは「荷風忌」です。(邦雄)

 

2018年

1月号編集後記

 校正の際に、皆さんの句稿の中で見つけた、私にとって新しい言葉や難解な語あるいは俳句的用言をノートにとってきましたが、この5年間でその数は約1,200語にものぼります。読み返してみると、皆さんの言葉に対する幅広く豊かな知識と感性に驚かされます。勿論、日常生活では口語が主体で古語や難解語を使う機会はほとんどありません。文語表記を基本とする俳句を作ることがあるからこそ、こうした用語に出会う訳で、そうした面でも俳句をやっていてよかったと思っています。お陰で本棚に埋もれていた古語辞典で言葉を確かめたり、各種俳句辞典を紐解くのも私にとって楽しい時間となっています。評論家の松岡正剛は「俳句辞典は俳句だけでなく、編集にとっても刺激的だ」と述べています。(邦雄)

 

12月号編集後記

 今年も定期健康検診を受けましたが、検診の結果に一喜一憂することなく、自分は健康だと思う「主観的健康感」を持つことが病気にならないコツだそうです。「体がじょうぶだ」「生きがいがある」「人との付き合いが楽しい」などの思いを高めることです。この健康感が低いと健康に影響をおよぼす酵素の活性化を下げるので、「病は気から」と言うのは科学的根拠のあることなのです。主観的というと非科学的に聞こえますが、生活条件の厳しかった昔のお坊さんが長生きしたのは、主観的健康感や幸福感が高く、正しい生活習慣を持っていたことが大きな要因であったこ

とも科学的に証明されています。高僧のような暮らしはできませんが、せめて俳句を通じて頭の活性化と主観的健康感を持ちたいと思うこの頃です。(邦雄)

 

11月号編集後記

東京で暮らすようになって半世紀、まだ故郷(福島)の訛りと言うか、特にアクセントが標準語(現在は共通語と言うようです)とは違っていると指摘されます。方言や地名を使った俳句であればどの地方の事かがわかりますが、基本的に標準語で書かれた俳句ではその断定は難しいでしょう。一方、例えば久保田万太郎や永井荷風の句を読むと、なんとなく江戸弁の匂いを感じます。芥川龍之介は万太郎の句を「東京の生んだ『歎げかひ』の発句」と評しているそうです。これは俳句のモチーフとも関係するのかもしれませんが、重次師の<西鶴忌きつねうどんに揚げ一まい>に関西弁の香りがしてきます。たまに故郷を思って詠むのですが、みちのく訛りの匂いはなかなか出ません。故郷は遠くなりました。(邦雄)

 

10月号編集後記

 落語家の三遊亭竜楽師匠とインタビューする機会があり、師匠は8か国語で落語を演じる落語家として名を馳せており、興味深いお話を伺うことができました。海外でもコメディアンが笑いをとる話芸がありますが、

その話の内容はほとんどが社会風刺や日常観察のネタ、あるいは自虐ネタで一方的に語る芸です。一方、落語の場合は一人で複数の登場人物だけでなく、その人物の姿や背景を描き、舞台設定から最後にはオチでその物語を完結させるわけですが、一番の魅力は聴衆の想像力にゆだね、観客と一緒になって笑いを作り上げていくことだと師匠は指摘します。俳句の詠み手が落語家で鑑賞者が聴衆とすれば、俳句に表現されている景色、物語、思いなどは鑑賞者の想像力にゆだねられており、そういう意味では落語とも通底する日本文化と言えましょう。(邦雄)

 

9月号編集後記

 自句自解を楽しく読んでいます。「俳句は作品で勝負するもの。作者が誰であろうと関係ない」と言った俳人がいます。句会ではまったくその通りです。その作品から得た共感や感動は作者の性別、年齢、経験などとは全く関係なく、選者の自由な解釈から生まれたもので、それが作者の狙いと異なる、あるいは深い鑑賞が成立するからでしょう。そういう意味では「選は創作なり」なのです。でも、毎号掲載している「自句自解」の自解説を読むと、その作者の作品に対する深い思い、人生観、喜び、悲しみを窺い知ることが出来ることで、思ってもみなかった深い感動を受けることがあります。素朴な俳句の裏に隠れた作者の想いを共有できる瞬間も捨てがたいものです。ぜひ皆様も「自句自解」へ積極的にご投稿ください。(邦雄)

 

8月号編集後記

本年度の全国大会報告にある通り、恒例の吟行、同人総会に加えて、今回は第一回「重次賞」の表彰式、坂元主宰句集『蠖取』の「文學の森賞」受賞祝賀会などが開催され、例年になく盛り上がった大会となりました。全国大会の模様および受賞祝賀会の様子は『俳句界』8月号にも掲載されます。全国の俳句結社に扉俳句会の存在がアピールできることは喜ばしいことです。10月には諏訪での四季吟行会が開催され、また、第二回「重次賞」の応募が始まりました。前回を上回る多くの方々の参画を心よりお願い申し上げます。特に「重次賞」は二句一組での応募が可能ですので、できれば全会員の応募を期待するものです。扉俳句会にとって年に一度の大切な行事です。より多くの会員参加により盛り上げようではありませんか。(邦雄)

 

 7月号編集後記

俳句に何か新しみを盛り込もうと思いながら作っているのですが、その際に、新しいモチーフを求めるか、新しい表現をどう求めるのか、悩みながら作っているのが実際のところです。新しいモチーフに新鮮な表現で出来れば一番いいのでしょうが、一句の形として納得できるような句が実現することはなかなか難しいことです。一方で、新しみというのは読み手に依存することも大きいのも事実です。読み手の感性、年齢、風土、社会など様々な要件があり、新しみは作者ではなく読み手によって作られる側面もありそうです。いずれにせよ、生活習慣や価値観などが大きく変化している中で「新しみ」に対する考え方も変わってきているのは間違いありません。そんな中で、自分なりのリアルさ、真実さを探ることが新しみにつながればと思っています。(邦雄)

 

6月号編集後記

 

千葉県にあるホキ美術館で写実絵画を見学しました。徹底したリアリズムで描かれた静物や人物あるいは風景は、まるで額縁のなかに本物が現れたような質感があり、その存在感に圧倒されました。写実画家のひとり磯江毅は「ものそもが語ることをとらえる」「写実とは自らの姿を投影すること」と語っています。確かに、彼の絵には精密画とは違う生命感に溢れ、人間の尊厳さえ感じさせます。「写実が極めることは写実でなくなる」とも言っていますが、これはある俳人の言う「写生が徹底すれば本質が現出する」ことにも相通ずるようです。リアリズム(写実)が「ありのままに描く」ことを超えて対象の真実と本質に迫るものであることに感得しましたが、一方で、俳句における「写実」とは何かを考えさせられました。(邦雄)

 

5月号編集後記

昨年の6月号から始まった「創刊25周年記念特集」は今月が最終となります。この間、各結社主宰からの力強いメッセージ、1年間にわたるシリーズ「重次俳句論を読み直す」では毎月2名の方に俳句論を展開して

頂きました。それぞれ個性に溢れた内容で、正面からの俳論、重次氏の思い出、エッセイ風な俳論と様々でしたが、重次師の俳句に対する思い、信条を脈々と受け継いでいる「扉」であることを証明してくれました。『重次俳句論』は会員にとってのバイブル的存在です。是非もう一度読み返してみてください。そこからまた新しい発見を見出すことでしょう。また、記念事業とし企画した会員句集「峰雲集」発行では中山敏氏『初蝉』、榎本城生氏『男火』を上梓出来たことは喜びに堪えません。(邦雄)

 

4号編集後記 

坂元主宰の『尺蠖』が「第9回文学の森賞」(月刊誌『俳句界』出版元)の

優良賞を受賞されました。扉会員として心からお喜びを申し上げます。

同社からは毎月10冊ほどの句集が出版されており、120冊以上の句集の中から受賞に輝いたのは本当に素晴らしいことです。会員としても誇らしく感じるのは私だけではないと思います。選考委員の今瀬剛一氏は選出基準として「作品の完成度と個性、新しさへの試みを念頭に置いた」、中嶋鬼谷氏は「遥かなものと呼び交わしており、詩の世界が透明であること」を挙げています。そうした基準を満たしての受賞です。奇しくも、同じく優良賞を受賞した河野薫氏(あざみ主宰)からは創刊25周年記念へのメッセージを頂いております。重次師も黄泉においてお喜びと思います。(邦雄)

 

3月号編集後記

同じ俳句に対して、「作者の嬉しい気持ちがわかる」と言う人もいれば「本当は作者は悲しいのでは」という感想を持つ人もいます。そんな時、自分の俳句が私の手元から離れて、その人の中にある言葉とつながって、その人の中に溶け込んだような感覚になることがあります。自分から離れた言葉に対して私はどうしようもないのですが、一方で「言葉の力」を感じるのです。私の中にある言葉を組み立てて作った句を、その人の持つ言葉とすり合わせて意味を選択して解釈します。句を読んだ人が見た言葉は確かにその人だけのもの。鑑賞も創作であるという所以です。その言葉から湧きだすイメージはその人の生活、人生を通して作り上げた結晶なのかもしれません。儚い言葉でも俳句の中で使われることで意味深い言葉になりうる。それが俳句の魅力の一つでしょう。(邦雄)

 

2月号編集後記

ある会合で初心者に俳句を説明してほしいとの依頼を受けて、いくつかの俳句入門書を再度読み直しました。俳句の三要素として定型、季語、切字は理解してもらえそうですが、俳句は自分の気持ちを表現する最短詩型であり、そのためには「理屈で作らない」「意味を持たせてはいけない」といったことをどう説明するか、なかなか厄介なテーマです。ある解説書はまず五・七・五のリズムを先ず活用すべきとしています。弾んだリズム、穏やかなリズム、荘厳なリズムといった、対象や感動の質によってそれにふさわしいリズムを工夫すること。俳句を作る作業は、自分の感動にかなったリズムを考え、言葉探しをする遊びとも言えると。リズムを通して「緩急自在に遊ぶこころ」(重次師)を持ってもらえるような説明をしたいと考えています。(邦雄)

 

 

2017年

1月号編集後記 

「老年的超越」という言葉を知りました。これは老年期に次ぐ超高齢期には、身体の衰えは増すものの、心理的な危機を克服し適応すると、肯定感やポジティブア感情を持つようになり、満足感や幸福感を増すのだそうです。105歳になる医師の日野原重明氏は100歳までは悩むことも多かったが、100歳を超えると幸福感が増し、心が豊かになり大きな生きる力が与えられたそうです。同氏は100歳から俳句を初めて、「104歳になって俳句のことがようやく分かってきた」と述べているそうです。「新しいことを創(はじ)めることを忘れない限り、人はいつまでも若く生きることができる」(マルティン・ウーバー)と紹介しています。俳句に限らず表現芸術には限りがありません。俳句を続けていくことで「老年的超越」が得られればと思います。(邦雄)

 

12月号編集後記

佐藤倖三さんのエッセイ「続・包丁人の季語日記」が今月号で最終回となります。その季節の食べ物、料理にまつわるお話をベースに、倖三さんの料理人としての経験を交えての毎回のエッセイは、蘊蓄が濃厚だけでなく、リズム感溢れる爽やかな文体に酔いしれるほどでした。最初のエッセイが平成十五年から四年半、そして今回が三年と通算七年半に亘って寄稿いただき、ある意味でほかの結社誌にはない扉の個性を作り上げていただいたと申せましょう。毎回千八百字を超えるエッセイをまとめるのは作句以上の時間と情熱が必要であったことは間違いありません。

厚く御礼を申し上げます。来月からは中野陽典さんのエッセイが始まります。ご期待ください。(邦雄)

 

11月号編集後記

四季吟行の帰りに長岡天神にある禅塾を訪れ、老師とお話をする機会を得ました。老師との会話で、「俳句を理解することは禅宗の悟り体験にもつながる」との鈴木大拙の言葉を知りました。禅は移り変わる自然の普通の出来事に深く関心を持つだけでなく、理屈ではなく直覚(直観)による真理を求めるとしています。このことは「禅」の言葉を「俳句」に置き換えても成り立つ文章です。大拙の『禅と日本文化』(岩波新書)には「禅と俳句」の章があり、例えば「元来、日本人の心の強みは真理を直覚的につかみ、表象を借りて、これをまざまざと現実的に表現することにある。この目的のために俳句は最も妥当な道具である」といった記述があり、俳句を楽しむ我々にとって示唆に富む内容です。一読をお勧めします。(邦雄) 

 

10月号編集後記

健康で長生きするための方法の一つとして、脳の健康を維持することがあります。それにはやる気や集中力を上げる脳内物質であるドーパミンを高めることだそうです。運動、瞑想、音楽、絵画、などが有効ですが、「探求する」こと、あるいは「新しいことに挑戦する」こともドーパミンが増えて脳が活性化するそうです。新しい音楽を聴く、珍しい果物を食べる、初めての食材を料理する、様々な俳人の句集を読む、見方を変えて詠んでみる、新しい句材に挑戦する、など、日常生活の中で探求や挑戦することを楽しめる方法がいくらでもあります。特に、趣味は瞑想と同じように脳をひとつのことに集中させ、ドーパミンが増加するため脳を老化から保護する効果が高まるそうです。健康を維持する上でも趣味の「継続は力なり」なのです。(邦雄)

 

9月号編集後記

今年は俳優渥美清が亡くなって20年にあたり、NHKの特集番組で、彼は「風天」の俳号で俳句を楽しんでいたことを知りました。68歳で亡くなるまでの23年間で270句に及ぶ句を残しています。歳時記に載った<お遍路が一列に行く虹の中>や<赤とんぼじっとしたまま明日はどうする><花道に降る春雨や音もなく>など多彩なモチーフ、独特の発想、ユーモア、ペーソスを感じさせ、技巧に凝らず自然で明快な句であり、奔放自在の句柄でありながら、全編に漂うのは哀愁と孤独感。あたかも重次師の言う「俳句は悲しみの文芸である」から生み出されたような句なのです。そして「ささやかな呟きの集積が、結果として生きている証になる」

という師の言葉を実践したかのような、かつ作者の顔が刻みこまれている

風天俳句に驚かされました。(邦雄)

 

8月号編集後記

 バドミントン初級教室に通いだして1年半が過ぎました。60歳半ばを超えてからのバドミントンですから、なかなか上達はしません。それでもこれまで出来なかったスピンやスマッシュが打てるようになり、確実に上達していることを実感しており、いまバドミントンが楽しくて仕方がない状態です。ゲームの勝ち負けよりも肝心なのはどれだけ真剣に練習するかであり、練習の成果がゲームに現れるとのコーチのアドバイス。 俳句で言えば、どれだけたくさん句を作り、読むかが上達のための基礎練習となるのでしょうが、バドミントンと比較して、練習の成果がなかなか見えにくく、したがって上達の実感を得ることが難しいと感じています。句会が試合の場としても、そこにはスコアのような絶対的な評価基準はありません。俳句は手ごわい相手で、俳句の難しさを改めて感じるこの頃です。(邦雄)

 

7月号編集後記

 扉創刊二十五周年記念事業として、案内にある通り新たに「重次賞」が創設されました。二句一組で応募が可能となりましたので、会員各位には奮ってご応募いただきたいと思います。また、今年の四季句会は京都嵯峨野で10月に開催されます。この機会にぜひ多くの皆様に秋の京都での吟行にもご参加いただきたいと思います。

 俳句結社の存立基盤は会員各位の参画にあり、主宰を中心として結社の伝統を踏まえて作句することから、俳句は「座の文芸」とも言われる所以でしょう。俳句の特質は作る自分がおり、俳句を読む(選ぶ)自分が

いることです。つまり俳句は役者でありかつ観客であるという二つの役割を演じることから成り立つといえましょう。だからこそ小説にはない面白さがあるのかもしれません。そして、会員相互の交流の中で自分なりの俳句を求めていく場が結社であると考えています。(邦雄)

 

6月号編集後記

扉創刊25周年記念としていくつかの特集記事を企画しました。俳句結社主宰からのメッセージには創刊主宰土生重次師への思い出が寄せられ、師の存在の大きさが伺われます。師が逝去されて15年が過ぎ、師の意志を継いで創刊25年目を迎えることが出来たのは歴代の主宰のみならず会員各位のエネルギーの結集の賜に他なりません。その知的情熱が「創造集団としての結社」を支えてきたものと思います。遠めがねは「重次俳句論を読み直す」というテーマで毎号2名の俳句論を1年間に

わたって掲載します。重次俳句論は言わば扉のバイブル的書であり、

この機会に皆様も再度じっくりと読み直してみてはいかがでしょうか。

(邦雄)

5月号編集後記

 かつて家庭菜園で野菜を作っていたときは、季節の変わり目を実感したものですが、スーパーに行けば一年中トマトやキュウリが売られており、都会では野菜で季節感を味わうことは難しい時代です。そんなこともあり、旬の野菜を見つけたら直ぐに買い込んで歳時記と照らし合わせて料理をすることもあります。これも俳句をやっているからこそ旬の野菜に目がいくのかもしれません。そもそも季節感を詠むのが俳句であり、その季節感を象徴する季語が句の中で重要な働きをするのは言うまでもありません。しかし安易に季語を入れて一句を仕立てるのは、季語にもたれた季節感のうすい句になりがちです。季節だけでなく暮らしの中の変化に気づく感性を磨きたいものです。(邦雄)

4月号編集後記

私の趣味のひとつに料理があります。最近ではレシピの材料をあり合わせの物に変えたり、調味料を少し変化させて作る事も覚えました。これもかれこれ10年近く作ってきたからでしょう。俳句の方は扉に入会し俳句を作り始めて今年で10年目となります。 料理を美味しく作る条件の一つに、調味料の組み合わせや分量をどうするかという「さじ加減」があります。俳句のさじ加減は言葉の選び方や言葉の組み合わせと言えそうです。その際に、言葉の持つ微妙なニュアンス、センスがつかめていないと、味のない俳句に陥りそうです。難しい言葉よりも簡単な言葉の方がたくさんの意味があります。単純でも豊かな味わいのある言葉を組み合わせることによって新鮮な俳句を作る。これが重次師の求めた「一読句意明解」につながることなのかもしれません。(邦雄)

3月号編集後記

4人の俳句仲間と連句会を開きました。全員が初めての経験なので、連句のルールにこだわらず、ともかく五七五ー七七の長句と短句で半歌仙(十八句)を巻いてみました。基本的には前の句の言葉から連想して、適当な距離感を持った句を付けます。自分の句に意外な句が付いたり、自分では思いつかないような句に驚いたり。ここに連衆の個性が出ます。作る制限時間は三~四分。まさに発想、即興、機知、飛躍の勝負であり、これも連句の醍醐味のようです。不安と、興奮、そして安堵を感じながらの三時間はあっという間に過ぎました。長谷川櫂は「俳諧(歌仙)を愉しむのは風雅に心を置いて現実の世界に遊ぶこと」と近著で述べています。お酒が入って風雅とは言えませんが、初めての連句会としてはなかなかの半歌仙に仕上がったと満足しています。(邦雄) 

2月号編集後記

  今月号に掲載した今年の全国同人総会のご案内にありますように、本年は扉創刊25周年にあたります。平成3年5月に土生重次師が創刊して

4半世紀を迎えるに至ったことは誠に喜ばしいことです。平成13年に師が逝去されてから15年目となります。これまで扉俳句会が存続したのも

会員各位のご支援の賜であり、師が目指した「一読句意明解」を主張する俳句への共感ではないかと思います。「山椒は小粒でもびりりと辛い」とありますように、扉は小世帯ですが、豊かな感性と鋭い才能の持ち主が参集する個性的な結社であると感じています。

 「扉とは不思議なものだ。開ければ新しい世界、閉じればまた別の世界を創り出す。私の俳句もそんな扉のようにありたい」との言葉を師は遺しています。これは師の俳句のありように対する願いであり、『扉』に対する願いとしています。編集部としても、改めて師の言葉を噛みしめ、新しい俳句の世界、詩情豊な俳句の世界を見つける喜びを分かち合えるような誌面作りをしていく所存です。6月の総会には会員の皆様と直にお話しを交わすなどして絆を深めたいと思っていますので、出来るだけ多くの方々が参加されますよう切にお願い申し上げます。(邦雄)

 

1月号編集後記 2016年

俳優の小沢昭一は俳人でもあり、俳号は「変哲」。12月10日が没後3年の「変哲忌」。彼のペーソス、諧謔に溢れた俳句に魅了され、彼の句集だけでなく、「句あれば楽あり」「俳句武者修行」などのエッセイも楽しく読んだものです。そのなかで、彼は「一念発起、とにかく一日一句を守って粗製濫造してきました」と記しています。山本健吉は俳句の本質として「滑稽」「挨拶」「即興」の3つを挙げていますが、変哲の俳句はあたかもその3要素を満たしているように思えます。その源は彼の俳句を愉しむ心であり、変人、偏屈人が集まる「東京やなぎ句会」―俳句を作るより集まって俳句をけなしあう会―だったのでしょう。自由な心で俳句を作り、個性豊かな句友と俳句を詠む。私ももっと「小沢昭一的俳句のこころ」で

俳句に遊びたいものです。(邦雄) 

12月号編集後記

神奈川近代文学館主催の連句会(長谷川櫂の司会)に参加し、初めて連句を経験しました。会場の聴衆から付け句を募り、そのなかからゲストが選んで半歌仙(十八句)を完成させるということで始まりました。前句と調和しつつ、出来るだけ変化させた句を3分間で作らなければならず、ゆっくり考えている暇はなく全くの即吟です。従って、連句の流れは即興、自在であり、発句から始まって最後はどう終わるのかまったく判りません。予定調和のない即興性と緊張感があるなかで、句友といわば長句(五七五)と短句(七七)で交互に会話を重ね共同で作る詩と言えます。付け句に点数を付けるのではなく、座に集まった連衆が瞬間に新しい世界を創造して行くところに連句の面白さがありそうです。同好の士を募ってやってみたいと思っています。(邦雄)

 

11月号編集後記

 俳句雑誌を読んでいたところ、俳句の読み方として「絵画的」と「物語的」のどちらかに着目するかによって、同じ句でも鑑賞が異なってくるという記事が目にとまりました。絵画的とは言葉通りに読んでそこで描いているイメージを再現するということですが、物語的では一歩踏み込んで言葉の裏にある情景を推理し、想像を膨らませて句の意図を読み取ろうとすることのようです。どちらにせよ、17文字の情報だけでは完全に筆者の意図を再現することは不可能です。従って、句のなかの言葉に対して自分なりの解釈や情報を付加することが必要となってきます。そのやり方によって鑑賞も当然違ってきます。一読句意明解であってもその鑑賞となるとなかなか一筋縄ではいかないのが俳句の特性と言えそうです。(邦雄)

10月号編集後記

 編集や校正の際に気になる季語や知らない言葉を書き記す「俳句言葉ノート」は2冊目に入りました。俳句をやっていてよかったと思うことはいくつかありますが、このノートをとることによって季語だけでなく漢検一級並の難しい漢字を知り、古来の語彙や日本的表現をかなり仕入れることができたことも一つです。俳句をやる前と比べれば、私の日本語の世界は格段に広がったことは確かです。しかし、仕入れた言葉を俳句で活用しているかというと、いささか心許ないところがあります。一七文字しかない俳句においては、言葉の働きを最大に生かすことや、繊細に使うかという修辞が求められます。その意味では単に語彙を増やすだけでなく、もっと言葉へのこだわりを追求すべきと感じています。(邦雄)

9月号編集後記

 お金よりも目的や好奇心を持っている人の方が幸福感が高いと言うのがある心理学者の調査結果です。しかし、他人と比較をすることでその幸福感が削がれてしまいます。そのため、比較を止めて他人の求めではなく、自分が何をしたいのか、どうしたら幸せを感じるかを自問することが大切としています。もし、比較するとすれば、過去の自分と比較して、過去よりよくなっていることを実感することが幸福感を増すための大きな力となります。それには目的を持ったら、心から手に入れたい、達成したいという気持ちが必要なのだそうです。そして、根気と粘りを持つことが楽観的な生き方をする上での要素の一つとしています。その意味で長年俳句を作られている皆さんは楽観主義を実践していると言えそうです。(邦雄)

8月号編集後記

 散歩にでかけて俳句を作ろうとしても、いつも目にする景色からはなかなか感動は生まれず、狭い範囲の俳句にしかなりません。そこで歳時記を開いてみると、そこには無数の季題が満載されており、読み始めると、心は無限に近い世界を逍遙することができます。そんな中から当季の気に入った季語、あるいは初めて使う季語で俳句を作ることはよくあることです。また、忌日俳句も私の得意とするところで、上五中七ができたところで、人物の生涯や作品の連想を元に忌日を取り合わせて完成させます。眼前になくても過去に見た美しいイメージとして、あるいは感動の伴った記憶として、心の中に生きている季語がたくさんあるはずです。それらを総動員し、かつ想像力を働かせ、季語の持つ季感を発酵させる。これが私の作句法のひとつです。(邦雄)

7月号編集後記

 老齢に関する本の中で、老化によって感覚や記憶が低下は避けられないものの、日頃脳を使っていればその機能は維持され、中でも、意味の記憶は経験によって蓄積され、感覚の記憶(聴覚、視覚)は若年層と変わらないとの記事を発見して心強くなりました。そして、俳句に限らず、創造的な活動によって脳を刺激するだけではなく、人生の生きがいや張りを与えてくれることが実証されているとあります。私自身、俳句を始めてから季語に限らず多くの言葉を仕入れましたし、日常生活の中で注意深く見たり聴いたりする習慣が出来たように思います。いま俳句をやめてしまったら創造的な活動から遠く離れた生活になるのは間違いないでしょう。金子まさ子さんは102歳で第4句集『カルナヴァル』を上梓。(邦雄)

6月号編集後記

 最近、古本屋でタイトルが「俳句殺人事件」という文庫本を手に入れました。帯には「推理小説と俳句が融合」とあり、松本清張を筆頭に12人の小説家が、俳句に絡む謎解きを展開しています。一冊でミステリーと現代秀句を味わう味わうことが出来ました。俳句を始めてからは古本屋や古本市に寄ると、句集だけでなく俳句関連の本を探すのが楽しみとなっており、本棚は小説の類は駆逐され、種々雑多な俳句の本で埋まるようになりました。寺田寅彦随筆集に「俳句の精神」のエッセイを発見すると嬉しくなり、石田波郷全集を三千円で入手して悦に入ったり。俳句を作ることだけでなく、思いがけない俳句の本を見つけことや、俳句本の世界を逍遙することも、私にとって大切な「俳句に遊ぶ」ことになっているようです。(邦雄

5月号編集後記    

 句会での感想を述べ合う際に、ともするとそんな事実があるのかとか、理屈に合わないといった意見が出ることがあります。水面に反射する光を「柔らかし」というのはおかしい、「彼岸の入りが寒い」のは当たり前ではないかと。しかし、眩しい光を「柔らかし」と感じさせる俳句であれば、それが真実になり、俳句にも「詩的真実」を創り出すことも大切であると重次も波郷も指摘しています。また、当たり前の句であっても、直感的に断定したところに俳句的把握があり、そこにただごとがただごとを飛び越えて秀句になる可能性があると言われます。論理や事実をもとに読むのではなく、俳句の詩情を直感的に読むことも必要なのでしょう。「読者はその作品によって得た感動をもとに詩情を味わえばいい(重次)」のです。(邦雄) 

4月号編集後記

 最近、映画やテレビドラマのなかの悲しい場面や感動のシーンに出会うと、それがちょっとしたことでも涙が出るようになりました。「歳のせいで涙もろくなった」と友人に話したところ、「歳のせいではなく、経験値が深まったから感動で涙がでると思っている」との返事が返ってきました。二〇代三〇代に読んだ小説の中に新しい発見があるのはそれ以降に積んだ経験があればこそなのかもしれません。人生の経験値は歳をとることで得られるものとするなら、その経験値の深さが感銘を与える俳句を生みだすのかもしれません。また、共通する経験があればこそ一七文字から作者の深い思いを読み取ることができるのでしょう。大きな俳句大会での入選句を見ると、おおむね高齢者の方の句であるというのも人生を共に歩んできたという経験が磁石のように引きつけるのかもしれません。(邦雄)

3月号編集後記

 米国ブログコンクール最優秀賞の受賞者が、「最高の人生を送るための秘訣」として三つあげています。一つは前向きな姿勢。明日を憂うのではなく気持ちを切り替えて前に進むこと。二つは豊かな感性を持つこと。そのためには自分の中の三歳児の感覚を大切にして、何でも不思議に思い、喜び、感動すること。最後に自分の好きなことをすることです。

 さて、私たちはこれらのことを俳句で実践しているのではないでしょうか。特に二番目は俳句を作る上で大切な感覚であり、芭蕉も指摘しているところです。ブログ作者は日常生活で発見したおもしろいこと、感動したことなど、毎日インターネットに長々と書き綴っています。私たちは俳句という十七文字の器のなかで日常の感動を表現しています。俳句に出会ったことで「最高の人生」を送れる。ブログ作者に教えて上げたいものです。(邦雄)

2月号編集後記

 最近、健康麻雀を楽しんでいます。麻雀は「運が三技術が七」のゲームとも謂われ、囲碁将棋と比べてかなり運に左右されます。例えば、配牌やツモに恵まれると、初心者でも簡単に満貫を上がることもあります。俳句も似たような側面がありそうです。例えば、新人がモチーフと季語の組み合わせが上手くいったときに、いきなり満貫級の佳句をものにすることもあります。言葉が17文字という極端に少ない器の中で、無心に並べた言葉が奇跡的な配列を形成することが起こるのです。これが「天から賜った句」と言えそうです。有名な画家や演出家が、良い作品を作るのに努力だけでなく、「天から降りてくるのを待つ」と語っていました。創造とは運や偶然も織りなす産物なのかもしれません。(邦雄)

1月号編集後記 2015年

 俳句を作る上で、切れ字、単純化、省略、韻律などさまざまな技巧が必要とされています。俳句に限らず文芸や芸術のほとんどにとって技巧は欠くべからざる要件ですが、特に俳句は最も技巧を要する詩と言えましょう。しかも、技巧を見せないようにすることが俳句で求められる技巧であり、技巧が露骨に現れれば、わざとらしいとか狙いが見えるとして評価されません。初学者にとってこの点が一番難しいのかもしれません。ここに重次師の言う「ひと節」の難しさがあるのではないでしょうか。従って、俳句で習得すべき一つは、「ひと節」(技巧)を洗練させることであり、「ひと節」によって平淡かつ奥行きのある俳句にしたいと思っています。(邦雄)

12月号編集後記

 扉の他にも雑誌編集のボランティアをしていることから、ほとんど毎日のようにパソコンに向かってキーを叩いています。後は読書、料理、テレビといったほとんど同じことを繰り返す生活。習慣化は効率的に暮らすには便利ですが、どうもものを考えなくなったと反省しています。先日見たNHKテレビ番組で、「考える」と何かに習慣を邪魔されて対応することであり、習慣は思考の母であり、繰り返しは悪いことではない、という指摘にひと安心。人は時に考えさせられる何かと出会うので、その時に考えればいいという訳です。私にとって俳句を作る時間が考える時のようです。番組では考えることが哲学をすることだと言っていましたが、そうであれば俳句の時間は哲学の時間(?)なのかもしれません。(邦雄)

11月号 編集後記

  詩人の茨城のり子はエッセイ「詩は教えられるか」の中で「詩の最大の敵は、固定観念というものだろう。すぐれた詩はみな固定観念を破った柔軟さをもっている」と述べています。重次師の「俳句は変化を見つける詩」と相通ずるところがあります。しかし、現実は日常の中から変化を見つけ出すのはなかなか大変な作業です。ではどうするか。ひとつは違う空間に自分を置いて新しい対象に出会う。もう一つは自分のものの見方、発想を変えてみることが上げられます。まず固くなった頭を柔らかくするための工夫、刺激、道具立てが必要ということで、類比、類推、比喩といったことに取り組んでみようと思っています。対象からいろいろとイメージや視点を広げていき、新しい関係性や類似性、あるいは措辞を見つけ出す。ものに託して自分の思いがうまく詠めればいいのですが。(邦雄)

 

9月号 編集後記

句会では句の選者の採った理由や感想をしっかり聞くようにしています。その鑑賞を聞いて自分が採り損ねたと思うことがあります。なによりも、選者が何に共感して句を採ったのか、その根拠をしっかりと述べることは、句会を活性化することにつながるもと思います。「良い句だから」ではなく、何がよくて素晴らしいと感じたのかを簡潔に述べることは、句作にとって役に立つはずです。

重次師は鑑賞とは「作品によって触発された自己の世界を展開するもの」だと指摘しています。俳句は発表された途端に読み手のものであり、作者の狙いよりもより詩的で深い鑑賞を得ることがあります。それが「鑑賞は創造である」という所以でしょう。俳句は作者ではなく俳句に語らせればいいと思います。(邦雄) 

8月号編集後記

 小川さんの「俳句と言葉」が今月号で最終回となりました。昨年の「扉を敲く」では作句する上での心得を、今年は日本語の成り立ちから変遷、そして文法の諸問題について幅広い見地から解説して頂きました。2年間の執筆に御礼を申し上げます。

 心得も文法も作句において骨格となる要素です。いくら良い句を作っても文法的に間違っていれば、それは傷のある句として入選には至らないでしょう。また、文法的に正しくてもそれ以前の、何をどう詠むかといったことも重要です。心得と文法は言わば俳句を成立させる両輪です。俳句を詠んだ瞬間に文法的に「おかしい」と思える感覚を醸成できれば上級者と言えましょう。そのためには常に正しい日本語を使っての句作およびたくさんの句を詠むことが必要と感じています。(邦雄) 

7月号編集後記

 最近、歳のせいで身体が動かないせいか、若いときのように冒険をしようとする意欲が減退したと感じています。身体だけでなく思考の方もなかなか新しいことを受け入れなくなったようで、俳句では無難な句会で採ってもらえそうな)句を作るようになったのではと、句友から指摘されました。重次師は俳句論の中で「師破離」を引き合いに述べていますが、「破」とは教え・基本から抜けだすことであるとするなら、それこそ冒険する心が必要でしょう。たとえば、俳句のモチーフを変えてみる、新しいレトリックを使う、観念を詠む、二物衝撃を大胆にやってみる、といったことです。心の冒険はいくらでも出来るはずですが、慣れ親しんだ枠から飛び出すのは不安や違和感が先立てなかなか難しいものです。でも一歩踏み出して数パーセントでも可能性を求めてみたいと思っています。(邦雄)

6月号編集後記
 NHKテレビで見た勝新太郎特集のなかで特に印象深かったのは彼の言葉の「偶然完全」でした。偶然から完全が生まれるという意味ですが、その例として、映画を制作する過程で、たまたま浜辺で見つけた貝殻を子役の口にくわえさせたエピソードを紹介していました。この偶然の出会いとひらめきにより最高傑作のひとつである映画『冬の海』が生まれたそうです。もちろん、偶然がすべて完全を生むと言うことでは
ないでしょうが、既存の映画の真似や枠から離れて、自分のオリジナリティを出すための一つの方法論として偶然を求めたのではないでしょうか。石田波郷の言葉に『俳句は生活の裡…即刻打座の歌なり』がありますが、「偶然完全」に合い通じるものを感じます。(邦雄)  

5月号編集後記

 俳句を始めた当初は早く上達したい、良い句を作りたいと句集や入門書を読み漁ったものですが、なかなか良い句はできないのが現実です。今でも時々入門書を読むのですが、良い句ができないのはどこに原因があるのだろうかなど考えてもなかなかその答えは見つかりません。俳句でやっていけないことはすぐに十数項目はあげられるのですが、何が良い句なのかと言われるとなかなかすぐには答えられないものです。俳人の辻桃子は「かりにすごく下手な句であっても、その人しか表現できない想いにあふれていたら、その人らしい良い句」であると述べています。もちろんそのためには俳句の技法を磨き、観察眼を研ぎ澄ませ、感動する心を深めると言ったことが必要でしょう。それでも一朝一夕は良い句は作れないのです。良い句が生まれるまでやり続けると言うのが答えなのかもしれません。(邦雄)

 

4月号編集後記

 句は17文字という短い形式では作り手の個性は入り込む余地がなく、個性よりも普遍性を求めてきた文芸と言うのが一般的な認識です。そのためには誰にでも理解してもらえる平明さが基本となります。しかし、多くの俳人の句を読むと、古くは芭蕉や一茶、現代では三鬼や誓子などそれぞれに個性を読み取ることができます。俳句は内にわき上がる想いを17文字で表現する叙情詩であり、表現はその想いにふさわしい自分だけのものであり、それが強く出ることによって個性が生まれるのかもしれません。重次師は「作者それぞれに個性がある。多様性のある作品欄は俳誌を活性化する」と述べています。表現は平明でもそこに込められた思いが深いときに個性が表出するように思います。(邦雄)

 

3月号編集後記

 以前、ゴルフをやっていたとき、いくら練習をやっても良い結果が出ないことが続くと、スランプにはまったと悩んだものです。スランプとは「結果」だけを追い求めると陥る心の問題なのだそうです。一方、スランプはこれまでのやり方では乗り越えられない一段高いレベルに来ている現れであり、それを乗り越えるためには今までのやり方を見直して、新しい考え方、心の持ち方、方法が必要と言うわけです。俳句でもなかなか良い俳句ができない、選に入らないと入ったことでスランプを感じることがあります。それは次の段階に進めという合図と捉え、乗り越えるには俳句に対する考え方、作り方を変えることが必要のようです。結果を求めないで自分がやれることをこなしていけば新しいステージの句の世界に入れるのではないでしょうか。(邦雄) 

2月の編集後記

 芭蕉の言葉に「新しみは俳諧の花なり。古木は花なくて木立ものふりたる心地せらるる」というのがあります。
芭蕉だけでなく虚子など俳人の俳論を読むと、俳句に新しさを求める姿が読み取れます。俳句の先人が苦労して新しさを加えてきたからこそ、俳句の伝統が廃れることなく、数百年にわたって俳句の精神が受け伝えられてきたと言えそうです。重次師の「俳句は平凡の中から非凡を見出す詩。変化を見出す詩」に通じるものだと思います。しかし、最近は俳句を作ることに慣れてしまって、同じようなことを繰り返して作ってはいないかと反省しています。この慣れを切るための方法の一つとして、新しい語彙を増やす、自分の直観や実感を大切にしてそれを現す言葉を見つけるようにしています。   (邦雄)

1月の編集後記 2014年

 諏訪吟行に参加する際に自分に課したテーマがあります。それは、構えを持たず対象と向き合い、自分の言葉で眼前の景を再現することに集中して、ともかく一句でも多く作るということでした。写生は発見描写と言われますが、発見はそうそうあるものでなく、とすれば偶然との出会いを待つほかなく、良い句が出来るかどうかは偶然でしかないと思うことにして、まずは自分の決めたことをどれだけやれるか、俳句の基礎訓練として写生を愉しむことにしたのです。一人吟行ではなかなかうまくいかないのですが、吟行会という強制力が上手く働いてくれたようで、なんどか数十句を作ることができました。残念ながらいい句に巡り会えず翌日の句会では成績は振るいませんでしたが、ともかく目標を超えたので満足した吟行会でした。(邦雄)

12月の編集後記
 俳句に限らず文芸作品は作者と読者によって成り立つものですが、最短詩型である俳句は、どのジャンルにもまして作ることと読むことが強くつながっていると言えます。俳句はその内側にある詩の世界をどう読み解くかという鑑賞があって始めて、佳句が生まれます。さらに、読み手が作品を素材として、思いもかけない新しい世界を創り出すこともありえます。その意味で、鑑賞は創造であり、作句と根底においては共通する要素と言えましょう。先月、作った私のイメージを超える広く深い世界を引き出した鑑賞に接し、鑑賞は創造ということを納得した次第です。作った本人が必ずしも作品のすべてを知り尽くしているとは限らないようです。ともかく、深く読む力をつけたいものです。(邦雄)

11月号編集後記

 観念を詠んだ句は理屈っぽくなるから、ものを観て作る写生を基本にすべき、という考え方が俳句の主流であり、重次師も「観念を排し、より具体的に」と主張されています。私としては小沢昭一のような俳諧味のあるおもしろい句や、日常生活を切り取った楽しい句を作りたいと思っているのですが、ついつい自分の解釈や思い込みを入れてしまい、観念的な句になりがちになってしまいます。絵には描けないような情景や印象を句に仕立てるには、読者が追体験できるような季語や言葉の選択が大切であり、読者の想像力を刺激し、共感を喚起するようなレトリックが必要なのでしょう。そのためには客観であれ主観であれ写生の基本を身につけることが大切と思うこの頃です。(邦雄)

10月号編集後記

 先日、ある俳人から「俳句と遊ぶ」「俳句に遊ぶ」「俳句を遊ぶ」の内、君はどれに当てはまるかと聞かれました。どれも同じように感じるものの、「俳句に遊び」にしたいと答えました。後日、確認のために文語文法書を開き助詞を調べて見た際に改めて認識したのは50以上もの助詞があることと、疑問、質問、反語など一つで幾つもの意味を表す助詞があることです。「てにをは」のひとつで意味が違ったり、助詞の一語でニュアンスが大きく変わるのはよくあることです。使い方ひとつで句を明解にも曖昧にもしてしまう不思議な言葉と言えましょう。推敲ではまず助詞を入れ替えてみるのがいいかもしれません。この文法感覚を身につけるにはたくさんの俳句を読んで、作句するという実践しかないようです。(邦雄)

9月号編集後記

 扉誌の編集に携わって始めたことに、校正の際に初めて出会った季語や言葉、確認しておきたい言葉、あるいは気になる表現などを書きしるす「俳句言葉ノート」なるものをつけ始めたことです。この1年で100項目以上にも増えました。いわば、扉誌は私にとって言葉の宝庫といった存在であり、皆さんの俳句から新しい言葉を取り入れています。 さて、俳句にとって最終段階の作業は、詠んだ対象の情景や感動にふさわしい表現が出来ているかを確認する推敲となります。ここで必要とされるのはまず語彙力でしょう。豊かな語彙力があれば様々な言葉で表現を変えることが出来ます。しかし、語彙力だけでは十分とは言えず、その句を生かすにはどちらの言葉、表現がよいのかを選択する判断力を磨かなければと思っています。(邦雄)

8月号編集後記
 高浜虚子は『立子へ抄』の中で、写生について最も注意すべきことは、目前の景色にのみとらわれないで、常に心を天の一方に遊ばせておくことだと述べています。つまり、ただ目の前の景色に膠着しないで、自分の思いを深く自由に心の中に持って、常に生々躍動して写生をしなさいと教えています。私としては、その心の躍動こそが俳句を作る根源的なエネルギーであり、人を引きつける個性となって表出するのではと思います。重次師は「表現者の個性(人生経験や感性に裏付けされた)がないとあるがままの姿を浮かび上がらせるように描き出す『描写』は難しい」と語っています。小川氏の『扉を敲く』は今月が最終回となりましたが、俳句を作る上での示唆に富む重次師の指摘が詰まっています。再読されてはいかがでしょうか。(邦雄)

7月号編集後記

 小沢昭一が四十数年に詠んだ句のすべてをまとめた『変哲半生記』を読んでいます。初学の頃に読んだ『句集変哲』に魅せられ、私もこんに楽しく、飄々とした句を作ってみたいと思ったものでした。山本建吉は俳句の基本性格として「挨拶、滑稽、即興」をあげていますが、変哲俳句はまさにその実践にあると言えましょう。彼は前書きで「俳句を詠むことで本当の自分と出会えることに気が付いた」「駄句にこそ私らしさが現れている」「人生を豊かにしてくれた俳句と句友に感謝」と書き記しています。心情を素直に吐露し、人の眼を気にせず、自分の句に愛着し、句を作る過程を楽しんだからこそ、この最後の言葉になったと思います。そして、「やなぎ句会」の個性豊かな句友と俳句を本気で遊んだからこそ、俳味あふれる佳句が生まれたのでしょう。(邦雄)

6月号編集後記
 「多くの椎の実や樫の実に叩いてもらえる『扉』でありたいし、その椎の実や樫の実に新しい世界、昨日はなかった別の世界を発見する喜びを感じてもらえる『扉』でありたいと願っている」。これは扉誌創刊号(平成3年6月号)の巻頭言にある土生重次師の言葉です。この言葉から感じるのは、結社に安住することなく、広く俳句の世界に目を向け、外からの刺激を大いに受けるとめるとともに、扉俳句会が常に新しい俳句を求める結社であるべきとの主張ではないかということです。重次師の思い、主張、理念は師の亡き後も脈々と受け継がれて今日の扉俳句会が存在します。創刊23年目の第一号となる扉誌の表紙に思い切ってイタリアのスケッチを採用しました。重次師の思いと新しさを求める結社をイメージしてデザインしました。(邦雄)

●5月号編集後記

 歳を取ると感覚が鈍くなるのは致し方がないこと。最近は味覚の衰えを感じます。料理の本を読んでいたら、料理を味わうメカニズムの記事が眼にとまりました。料理を口にして食の情報が脳にインプットされると、脳はその情報を解析し過去の記憶と照合しておいしさを判断するそうです。味だけでなく、食べたときの環境や経験、文化的な要素までが影響するので、幅広い豊かな食の経験に左右されます。一方、衰えた味覚を取り戻すには、料理の味の違いを意識して食べるのが効果的で、味覚を鍛えるには複雑な味を含む料理を食べることをあげています。味覚を「俳句を味わう」に置き換えてみると、複雑な句、難解な句、抽象的な句などこれまであまり読まなかった句など、幅広く読んでみることで俳句感覚が鍛えられ、明解な句がより一層深く読めるのかもしれません。(邦雄)

●4月号編集後記

 平山郁夫氏はスケッチには「感動と第一印象を留めること」「よけいなものを外して描く」「自分の一番の感動を主張するには、省略や強調などディフォルメが必要」と述べています。俳句は写生が基本とされていますが、もともと既成の見方や感じ方から抜け出すための技法として子規が唱えたものです。詠み込む対象をしっかり観て、それを拡大縮小、省略、変形など行うことにより、俳句としての表現の真実が生まれるのかもしれません。それにしても17文字の限られた言葉しか使えない俳句には、スケッチ以上の張りつめた作業ー適切な言葉選びーが欠かせないと感じています。(邦雄)

●3月号編集後記

 重次師は初学の頃は、とにかく著名俳人の作品を手当たり次第に読み、その中から自分の好みに合う俳人として山口誓子に出会い、自分の俳句の骨格の形成につながったと『俳句論』で述べています。そこで、誓子の句集を読んでみたところ、彼の俳論の頁に「作曲家が作曲力をつけるには読譜力を養うのが良いと言っているが、俳句の世界も同じことで、読句力が着いてくればそれに養われた作句力がついてくる」という文章を見つけました。ここでの読句力とは鑑賞力のことですが、「読句から俳句の骨格を知って作句に移るのがいい」という訳です。また、七~十年の経験者なら三〇冊から五〇冊の句集を読むことが次の成長期のあり方を決定すると言うのが藤田湘子です。先月の後記で「ひたすら読む」を書いた後の発見ですが、手元の句集は三〇冊に満たない上に、まだ全部を読んでいません。まず三〇冊を読み通し、五〇冊の読破に挑戦です。(邦雄)

●2月号編集後記

 好きな詩人の長田弘に次のような発言を見つけました。「読書とは答えを求めて読むのではなく、ひたすら読む、じっくり、ゆっくり、心を澄まして読むことだ」。この読書を俳句に置き換えて、句集をそのような態度で読んでみようと思っています。これまで答えを求めすぎていたかもしれません。そして、「感受力とは伝えられていないものを受け取る力」とも言っており、俳句は言葉の裏に隠れている情景、思いを読み解く文芸であり、句集は感受力を高めるための最良の書とも言えそうです。『重次俳句論』にある「鑑賞とは氷山の海に没している部分を読み取ることだ」と重なるところです。 読者アンケートには多くの方から回答をいただきありがとうございました。皆様のご意見を今後の編集に反映させていきたいと思っております。(邦雄) 

 

●1月号編集後記 2013年

机上派の私は吟行の経験が少ないこともあり、なかなかその場で句ができず苦手意識があります。いろいろとメモして持ち帰ってもあれこれ考えすぎるのか、一句仕上げるのに時間がかかり十分な推敲もできないで締切間際に提出ということになるのが実際のところです。今回の長浜は初めて訪れた土地であり、琵琶湖の広さに圧倒され苦吟の体でした。いささか構えすぎたのかもしれませんが、見たこと聞いたことをまずしっかりとデッサンする力を高めなくてはと感じました。そのためには日頃からしっかりものを見る力をつけ、持てる語彙を増やさなければと思った次第です。吟行地のエネルギーに対して自分の心のエネルギーが足りなかったのかもしれません。重次師は句の選を格闘技と喩えましたが、私にとって自然に対峙して句を作るのは格闘であり、もっと気合いを出す必要がありそうです。

俳句界一月号に長浜吟行会の紹介記事が掲載されています。当会のウエブサイトにも掲載しましたのでご覧下さい。(邦雄)

●12月号編集後記

 俳句を作る上で感性が大切と言われます。感性とは「外界の刺激に応じて何らかの印象を感じ取る、その人の直観的な心の働き」であり、直観の源になるのはこれまでの経験や記憶感じたことなのだそうです。それらを活性化させることが感受性を鋭くさせ、個性の基礎となるというわけです。
 たまたま読んだ新聞コラムに「ファッションセンスは磨くものではなく、よく感じてしみ込ませるものだ。何度となく見たり聴いたり味わったり触れたりすることを繰り返すことで板についてくる」とありました。 俳句のセンスを作るのも同じかもしれません。自然、芸術、音楽、絵画などに触れ、発見や喜びを見出す。この積み重ねが栄養となっていつの日にか佳句となって実を結ぶのでしょう。その日がくるまでの過程を楽しみたいと思っています。

 

11月号編集後記

 10月号の「扉を敲く」の「描写と説明」は示唆に富む内容でした。先日のテレビ番組で、作家の宮本輝が小説を書き始めたとき先輩から「説明するな、描写しろ」と教え込まれたと語っていました。その境目を説明するのはなかなか難しく、「上手く書こうと思わないで見たままを表現すること」がコツであると指摘していました。そこに彼の抒情ある文体が生まれたのかもしれません。俳句も同様で、言葉で飾り付けずに素直に詠むことで余韻を醸しだし、抒情ある句ができるのでしょう。
 今月号からコラム「遠めがね」を掲載しました。俳句について思うこと、疑問や悩み、重次師に学んだこと、おもしろかった俳句の記事・本、好きな俳人・俳句など、私の俳句生活、俳句が生まれるとき、などなど俳句に関することであれば何でもかまいません。いわば「遊歩道」の拡大版です。900字以内でまとめて気軽に投稿ください。(邦雄)

10月号編集後記 2012年

 フランスの哲学者アランは『幸福論』で「つまらない芝居を観ると退屈する。しかし自分が芝居に出るときにはつまらない芝居でも退屈しない。だから『幸せになりたい人は舞台に上がらなくてはならない』」と言っているそうです。これを「つまらない俳句を読むと退屈する。しかし、自分が俳句を作るときにはつまらない俳句でも退屈しない。だから、俳句を作っている人は幸せである」と読み替えると、俳句を作っている会員の皆さんは、俳句という舞台に上がっている役者、主役と言えるでしょう。
 現在、会員の方のおよそ7割の方が扉誌に投句をされていますが、あとの3割の方が購読だけのようです。できれば投句されていない会員のみなさんにも是非本誌へ投句していただきたいと思います。そして、扉新人賞へ挑戦してはいかがでしょう。アランは「人は苦しさを乗り越えた時こそ、幸福を感じる」と記しています。

 

扉編集長 野地邦雄