土生重次

扉俳句会の創立者である土生重次は、昭和10年に大阪堺市に生まれ、中学時代に叔父に俳句の手ほどきを受ける。学生時代はバンド活動などで俳句と遠ざかるが、昭和45年頃俳句再開、49年「蘭」(野沢節子主宰)入会、同編集長などを経て冬生句会指導(句会報刊行)を土台に、平成3年「扉」創刊準備号を経て、5月扉創刊号(6月号)発行により俳句結社「扉」主宰となる。上場企業役員を務めながら主宰として結社の育成に務めるも、定年後間もなく健康を損ない、平成11年末で結社主宰を辞し平成13年に逝去。

句集 『歴巡』『扉』『素足』『刻』

 

春闘の文字右にはね貨車の胴
畳一枚ほどのげんげ田廃坑区
早蕨の渾身こめて握るもの
春愁や髪にかくるる耳飾
花ぐもり鳩のおくびやう鳩時計
蟷螂の腹ひやひやと掌に這はす
大の字に寝て一畳の九月尽
ライターの炎のついとのびて冬  

 

土生重次 自選句1
『歴巡』より
土生重次 自選句1.docx
Microsoft Word 18.6 KB
土生重次 自選句2
『扉』より
土生重次 自選句2.docx
Microsoft Word 18.3 KB
土生重次 句集 『刻』より
土生 重次    句集「刻」1.doc
Microsoft Word 52.5 KB

土生重次語録

ヤキモチは作品に

 人は人に対してヤキモチをやきます。「扉」に集まる人は「作品に対してヤキモチ」をやいてもらいたいと思います。「人に対して」は「むなしさ」だけしか残りません。「作品に対して」は作句へのファイトが湧くし、結社としての活力につながるからです。創作集団はこうありたいと思います。

 

句集の勧め

 句集として作品をまとめることは、自己の句業を凝縮し、見直すいい機会となります。そこからまた新たなる俳句への出発が始まるのだ、とも言えるでしょう。今日、明日の話ではなく、みなさんも句集にして自己の作品を広く読んでもあるのだ、という目的を気持ちのどこかに据えて、日々の作句の励みにしていただきたいと思います。ささやかではあっても、「目的」を持つことは作句の上だけでなく、生き方としても大いなるプラスになると思います。

俳人は歳をとらない

 俳句をはじめると、あたりの景やものが新鮮に見えてきます。「当たり前のものでない」ように見えてくるのですね。ものを見るときに「驚き」を感じるようになるのです。何を見ても驚かない人生ってつまらんですね。

 俳句を作ったり読んだりする方は歳を取りません。それは「好奇心人間」だからでしょう。何にも興味を持っておいしい料理をじっくりと噛みしめて味わうように、自然を、人間を、モノを「味わう」からでしょう。

「量」と「継続」をモットーに

 俳句を作ることに好不調の波はやむを得ないにしても、出来るときは一気に作り込むことも大切です。俳句は「多作多捨」と言った人がいますが、「多作」は「多捨」に直結するものではありません。これは、俳人たるべき覚悟のことを言っているのであって、俳句上達の方法を言っているのではありません。

 作句には一発必中はありません。理屈抜きで表現してみることです。「量」と「継続」をモットーに、どしどし作品をぶつけて下さい。

一と節

俳句に作者の存在感が感得できなければならない。大野林火のいう「一と節」である。それがないと「只事」になる。単に事実を報告したにすぎないものとなるからである。この「一と節」を「モノ」で発見するか、「モノ」との関係で発見するか、「事柄」を発見するか。いずれにせよ「発見」は「感覚」であって「理屈」ではない。それを踏まえておいて、作者は自由に詩の世界を飛翔していってほしい。

遊び心を大切に

「俳句は遊びだ」と言う人もいます。その通りだと思います。しかし同じ遊びなら、真剣に遊んだ方が充実感、満足感があると思うのですがどうでしょうか。緩急自在に遊ぶこころ。これが大切だと思います。

採らない句

分からない句、言葉の斡旋がおかしい句。類句は採るが、あまりにも多い句は採らない。ねらいが見える句。表現は面白いのに実態が伴っていない句。絵のような俳句。作ってはいけないという句はないが、選んではいけないという句はある。

俳句を産み続ける喜びを

俳句は自己の詩であり、それを開花させるのは持続です。自然と向かい合うことを保ち続けてください。俳句は始めるのも簡単ですし、止めるのもかんたんです。続けるのは苦しいので、と自分に弁解するのも簡単でしょう。しかし、作品は自分の手を離れて、ひとり歩きを始めます。次々と作品を産む喜びを覚えて下さい。

俳句は中年からの文芸

「俳句は中年からの文芸」と言われてる。若い頃から始めた人でも中年になって人生経験の厚みが句を深くしていくからだと思う。平均寿命が延びた今、この言葉が吐かれた時代から十年は若返っているはず。俳句は出発した年齢や俳歴の長さが問題なのではない。一日一日、いかに自分が俳句とかかわったか、その密度の問題だと思う。

作る楽しみと読む楽しみ

作る楽しみと読む楽しみの両方を備えているのが俳句である。ともすると前者の方に重きを置きがちだが、読む楽しみも句を作る刺激になるのである。俳人は句集をあまり読まないと言われているが、作る欲求と読む欲求を別種、無関係と思っている人が多いからではなかろうか。読む欲求に目覚めないままひたすら作り続けることは、いずれ来る作句の限界を覚悟した上でなければならないだろう。

俳句は無限に未開拓の原野を抱えている
俳句は短い詩型だからものの言えない不自由さがあるとか、誰かの作品に似た句になる、いわゆる類句類想の問題とか、いつもどこかでそんな話が出ているようだ。しかし、一部を取り上げて全体がそうであるように言うのは、単なる錯覚である。
人間一人一人が異なるように、一人一人の作る俳句もそれぞれ異なるのだ。要は「季節」と「対象」への関わり方なのである。使い古されたと思える季語でも、その人の関わり方によって、実に新鮮な言葉として顕ち上がってくる。

句会に三つのポイント

句会は①自分の作品がどう評価、鑑賞されるか。②自分が他人の作品(主宰作品も含めて)をどう評価するか。③それらの評価が他の人のものとどう違うが。それらが実感として確認できる場であるということです。句会は決して自分の作品を主宰が採ったか、何点入ったかを確認する場だけではありません。そうであればツマランですね。

 

初学の頃

問:俳句の表現力を養うにはどのような勉強をしたらよいでしょうか。

私の初学の頃は、とにかく他人の作品を読みました。所属している結社誌はもちろん、著名俳人の作品を手あたりしだいに読んだのです。そのうち、自分の好みに合う俳人と出会います。私の場合は山口誓子でした。次いで誓子門下の方々の句集を集中的に読みました。それが私の俳句の骨格の形成につながっていると思います。

 

選句の心得

佳い句の条件はまず分かる句である。こうじゃなかろうかとか、ああじゃなかろうかと、推測を必要とする句は疲れる。佳い句かそうでないかの前に、分からないとどうしようもない。分からないけどいい句ですとは言えない。俳句はまず一読句意明解であることだ。

分かるといっても、事実が分かるだけでは散文を読んでいるのと同じだ。俳句は散文ではない。「共鳴」である。共鳴とは心から同感することで、その同感が作者の手を離れた作品をより豊かにする。

 

師破離

上方の古い言葉に「師破離」というのがあると聞いたことがある。これは師を真似て学び、師を超えて、師を離れていくことであるという。そして初めて一人前になるのである。  

「師破離」はまた「縛り」に通じている。師に「縛られる」ことい通じている怖さを知っておきたいが、上方の職人たちはこの裏の「縛り」を意識しながら「師破離」のために心血を注いでいったように思う。

 

連衆は創造集団である

俳句の世界では「連衆」という言葉がよく使われる。現在では同じ結社の気の合った俳人仲間という意味に使われているようだ。この「気の合った」というレベルが井戸端会議なみであるとするならば、創造集団としての結社の機能がまったく欠落してしまうだろう。この連衆こそ、知的情熱のぶつかり合うレベルで「気の合った」でなければならない。

  

俳句は「訓練」の文芸

俳句は「訓練」の文芸である。「教育」の文芸ではない。「教育」は「知らないことを教わる」ものだが、「訓練」は「分かっていることを繰り返し実践する」ものだ。 

 

「秀作」を支えるのは「量」である

俳句を作る楽しみを本当に分かっている人は、結果として量を作っている。その量を富士山の裾野とすれば、頂上の美しさ、すなわち秀作を得ることになる。裾野はたっぷりと豊かな広がりのある方がいい。その裾野がごくわずかの面積しか持たない頂上の美しさを生むのである。そういった意味からも「秀作」を支えるのは「量」であるといえるだろう。

 

俳句は絶えざる詩心の開発

俳句は持続であるとよく言われる。これは絶えざる自己の詩心の開発である。作って作って作り続けることである。作る苦しみは今の私にもある。しかし一句がなって、それが読み手に共鳴されたときの喜びは何ものにも替えがたい。それを求め続けるところに、作句のエネルギーの源泉がある。

 

俳句は変化を見つける詩である

それは「何を」の変化を探し求めるのではなく、「自分の変化」を見つけることである。平凡な日常生活をおくっている人間には常に平凡な「何を」しか見出すことができない。だが「いかに」は違う。昨日の自分とは異なった今日の自分があるはずだ。

 

読者の喜び 

 俳句は作者の感動を読者のものにする喜びがある。読者の喜びとは、過去に体験した感動が、意識の奥底に沈んでしまっていて、日頃それを思うこともないなかで、一句と出会うことによってまざまざと蘇ってくるところにある。

 

観念を排して、より具体的に

 添削の寸感や句会の講評で常に言っていることは、俳句は「観念を排して、より具体的に」詠むべきであるということだ。観念は作者の独善に終わってしまう。読者に感動を生まないのである。端的に言うと「分かる」が、しかしただそれだけの俳句でしかない。

 

一読句意明解

 私は俳句をひとつのパターンに閉じ込めて、それをよしとするものではない。作者それぞれの個性があるからだ。多様性のある作品欄はその俳誌を活性化する。しかし、その多様性の根っこの部分は充分に固めておきたい。それは一読句意明解であることだ。

 

俳句は平凡のなかから非凡を見いだす詩

 俳句は「平凡の中から非凡を見出す詩だ」と思っている。言い換えれば「変化を見出す詩」である。何気なく見えていたものが、今という一瞬に立っている一個の人間として、何かが変わっていると捉えられることだ。